復讐・戦争・自殺
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)名《なづ》けて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)怪物|棲《す》めり

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(例)[#地から2字上げ](明治二十六年五月)
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     復讐

 人間の心界に、頭は神にして脚は鬼なる怪物|棲《す》めり。之を名《なづ》けて復讐と云ふ。渠《かれ》は人間の温血を吸ひて人間の中に生活する無形動物にして、古《いにし》へより渠が為に身を誤りたるもの、渠によりて志を得たるもの、渠の為に苦しみたるもの、渠の為に喜びたるもの、挙《あげ》て数ふべからざるなり。
 見よ、戯曲は渠を以て上乗の題目とするにあらずや、見よ、世間は渠を以て尊ふとむべきものとするにあらずや、而して復讐なるもの、そのいかなる意味の復讐に関《かゝは》らず、人間の心血を熱して、或は動物の如く、或は聖者の如く、人を意志の世界に覚めしむるはあやし、あやし。
 復讐は快事なり。人間は到底、平穏無事なるものにあらず。罵《のゝし》らるれば怒り、撃たるれば憤る、而して、其の怒ること、其の憤ること、即坐に情を洩らすこと、野獣の如くにして而して止むを得ば、恐らく復讐といふものゝ要は無かるべし。然れども人間は記憶に囲まるゝものなり。心界に大なる袋あり、怒をも、恨をも、この中に蓄ふることを得るものなり。再言すれば情緒を離るゝこと能はざるは人間なり。人間の一生は、苦痛の後に快楽、快楽の後に苦痛ありて、而して満足といふものはいつも霎時《せふじ》のものにして、何事も唯だ一時の境遇に縛らるゝものなり。爰《こゝ》に於て、人間の本能の、或部分は、快事[#「快事」に白丸傍点]の為に狂するなり。
 復讐の快事なるは、飲酒の快事なるが如く然るなり。日常の生活に於て此事あり。多岐多方なる生涯の中に幾度か此事あるなり。生活の戦争は一種の復讐の連鎖なり。人は此快事の為に狂奔す。人は此快事の為に活動す。斯の如くにして今日の開化も昔日の蛮野《ばんや》に異ならざるなり。然り、ヒユーマニチーは衣装こそ改まれ、千古不変なるものなり。
 復讐の精神は、自らの受けたる害を返へすにあり。而して自らの受けたる害を償《つぐな》ふことを得るは、甚だ稀なる塲合なり。己れが受けたる害の為に、対手《あひて》に向つて之に相当なる
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