るもの、果して人間の心なりとせば、吾人|豈《あに》人間の心を研究することを苟且《かりそめ》にして可ならんや。
 造化《ネーチユア》は人間を支配す、然れども人間も亦た造化を支配す、人間の中に存する自由の精神は造化に黙従するを肯《がへん》ぜざるなり。造化の権《ちから》は大なり、然れども人間の自由も亦た大なり。人間豈に造化に帰合するのみを以て満足することを得べけんや。然れども造化も亦た宇宙の精神の一発表なり、神の形の象顕なり、その中に至大至粋の美を籠《こ》むることあるは疑ふべからざる事実なり、之に対して人間の心が自からに畏敬の念を発し、自からに精神的の経験を生ずるは、豈不当なることならんや、此塲合に於て、吾人と雖《いへども》、聊《いさゝ》か万有的趣味を持たざるにあらず。
 人間果して生命を持てる者なりや、生命といふは、この五十年の人生を指して言ふにあらざるなり、謂ふ所の生命の泉源なるものは、果して吾人々類の享有する者なりや。この疑問は人の常に思ひ至るところにして、而して人の常に軽んずる所なり、五十年の事を経綸するは、到底五十年の事を経綸せざるに若《し》かざるなり、明日あるを知らずして今日の事
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