を計るは、到底真に今日の事を計るものにあらざるなり、五十年の人生の為に五十年の計を為すは、如何《いか》に其計の大に、密に、妙に、精にあるとも、到底其計なきに若かざるなり。二十五年を労作に費し、他の二十五年を逸楽に費やすとせば、極めて面白き方寸なるべし、人間の多数は斯の如き夢を見て、消光するなり、然れども実際世界は決して斯の如き夢想を容るゝの余地を備へず。我が心われに告ぐるに、五十年の人生の外はすべて夢なりといふを以てせば、我は寧《むし》ろ勤労を廃し、事業を廃し、逸楽晏眠を以て残生を送るべきのみ。
 吾人は人間に生命ある事を信ずる者なり。今日の思想界は仏教思想と耶教思想との間に於ける競争なりと云ふより、寧ろ生命思想と不生命思想との戦争なりと云ふを可とす。吾人が思想界に向つて微力を献ぜんと欲することは、耶蘇教の用語を以て仏教の用語を奪はんとするにあらず、耶蘇教の文明(外部の)を以て仏教の文明を仆《たふ》さんとするにあらず、耶蘇教の智識を以て仏教の智識を破らんとするにあらず、吾人は生命思想を以て不生命思想を滅せんとするものなり、彼の用語の如き、彼の文明の如き、彼の学芸の如き、是等外部の物は、自然の陶汰を以て自然の進化を経べきなり、吾人の関する所|爰《こゝ》にあらず、生命と不生命、之れ即ち東西思想の大衝突なり。
 つら/\明治世界の思想界に於て、新領地を開拓したる耶教一派の先輩の事業の跡を尋ぬるに、宗教上の言葉にて、謂ふ所の生命の木[#「生命の木」に傍点]なるものを人間の心の中に植ゑ付けたる外に、彼等は何の事業をか成さんや。洋服を着用し、高帽子を冠ることは思想界の人を労せずして、自然に之を為すなり。凡《およ》そ外部の文明を補益することは、何ぞ思想界の達士を煩《わづら》はすことを要せんや。外部の文明は内部の文明の反影なり、而して東西二大文明の要素は、生命を教ふるの宗教あると、生命を教ふる宗教なきとの差異あるのみ。優勝劣敗の由つて起るところ、茲《こゝ》に存せずんばあらざるなり。平民的道徳の率先者も、社会改良の先覚者も、政治的自由の唱道者も、誰か斯民に生命を教ふる者ならざらんや、誰れか斯民に明日あるを知らしむる者にあらざらんや。誰か斯民に数々《さく/\》※[#「戚/心」、第4水準2−12−68]々《せき/\》として今日にのみ之れ控捉せらるゝを警醒するものにあらざらんや。宗教として
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