nifestations を観るの外には、観るべき事は之なきなり。観[#「観」に傍点]は何処までも観[#「観」に傍点]なり、然れども此の塲合に於ては観[#「観」に傍点]の中に知[#「知」に傍点]の意味あるなり、即ち、観[#「観」に傍点]の終は知[#「知」に傍点]に落つるなり、而して観[#「観」に傍点]の始も亦た知[#「知」に傍点]に出るなり、人間の内部の生命を観ずるは、其の百般の表顕を観ずる所以《ゆゑん》にして、霊知霊覚と観察との相離れざるは、之を以てなり。霊知霊覚なきの観察が真正の観察にあらざること、之を以てなり。
 夫れヒユーマニチー(人性、人情)とは、人間の特有性の義なり。詩人哲学者は無論ヒユーマニチーの観察者ならずんばあらず、然れども吾人は恐る、民友子の「観察論」の読者には、或は詩人哲学者を以て単に人性人情の観察者なりと、誤解する者あらんことを。民友子の「観察論」を読みたる人は必らず又た民友子の「インスピレーシヨン」を読まざるべからず。然らずんば吾人民友子に対する誤解の生ぜんことを危ぶむなり。詩人哲学者は到底人間の内部の生命を解釈《ソルヴ》するものたるに外ならざるなり、而して人間の内部の生命なるものは、吾人之れを如何に考ふるとも、人間の自造的のものならざることを信ぜずんばあらざるなり、人間のヒユーマニチー即ち人性人情なるものが、他の動物の固有性と異なる所以の源は、即ち爰《こゝ》に存するものなるを信ぜずんばあらざるなり。生命[#「生命」に傍点]! 此語の中にいかばかり深奥なる意味を含むよ。宗教の泉源は爰にあり、之なくして教あるはなし、之なくして道あるはなし。之なくして法あるはなし。真理[#「真理」に傍点]! 世上所謂真理なるもの、果して何事をか意味する。ソクラテスも霊魂不朽を説かざれば、一個の功利論家を出る能はざるなり、孔子も道は邇《ちか》きにありと説かざれば、一個の藪医者たるに過ぎざりしなり。道は邇きにありと言ひたるもの、即ち、人間の秘奥《ひあう》の心宮を認めたるものなり。霊魂不朽を説きたるもの、即ち生命の泉源は人間の自造的にあらざるを認めたるものなり。内部の生命あらずして、天下豈、人性人情なる者あらんや。インスピレーシヨンを信ずるものにあらずして、真正の人性人情を知るものあらんや。五十年の人生[#「人生」に傍点]を以て人性人情を解釈すべき唯一の舞台とする論
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