ヘ、従前の平民よりは多少の活気を帯びたりし事疑ひなし。故に彼等の思想も自《おのづ》から一種の特色を具備し得て、隠然武門の思想と対峙せんとするが如き傾きを生じたり。宜《むべ》なるかな。我邦に於て始めて、平民社界の胸奥より自然的育生の声を、この時代に於て聞きたるや。
人は元禄文学を卑下して、日本文学の恥辱是より甚《はなはだ》しきはなしと言ふもの多し。われも亦た元禄文学に対して常に遺憾を抱く者なれど、彼をもつて始めて我邦に挙げられたる平民の声なりと観ずる時に、余は無量の悦喜をもつて、彼等に対するの情あり。然り、俳諧の尤も熟したるもこの時代にて、戯曲の行はれしも、戯作の出でしも、実に此時代にして、而して此等《これら》の物皆な平民社界の心骨より出でたるものなることを知らば、余は寧ろ我邦の如き貴族的制度の国に於て、平民社界の初声《はつごゑ》としては彼等を厚遇するの至当なるを認むるなり。
我国平民の歴史は、始めより終りまで極めて悽惻《せいそく》暗澹《あんたん》たる現象を録せり。而して徳川氏以前にありては、彼等の思想として余に存するもの甚だ微々たり、徳川氏以後世運の漸《やうや》く熟し来りたるを以て、爰《こゝ》に漸く、多数の預言者を得て孚化《ふか》したる彼等の思想は、漸く一種の趣味を発育し来れり。然れども彼等の境遇は、功名心も冒険心も想像も希望も或る線までは許されて、其線を越ゆること叶《かな》はず、何事にも遮断せらるゝ武権の塀墻《へいしやう》ありて、彼等は声こそは挙げたれ、憫《あは》れむべき卑調の趣味に甘んぜざるを得ざりしは、亦た是非もなき事共なり。
幕府は学芸の士を網羅するに油断なかりき。幕府のみ然るにあらず、その高等種族(武士)は、文芸を容れて大《おほい》に品性を発揚したり、当時非凡なる学士の、彼等の社界に厚遇せられたる事実は、少しく徳川時代を知るものゝ共に認むるところなり。然《しかる》に是等学芸の士は、平民に対して些《ちと》の同情ありしにあらず、平民の為に吟哦《ぎんが》せし事あるものにあらず、平民の為に嚮導《きやうだう》せし事あるものにあらず、かるが故に既に初声を挙るの時機に達したる平民の思想は、別に大に俳道に於て其気焔を吐けり。幕府は盛に能楽と謡曲とを奮興して、代々《だい/\》の世主厚く能楽の大夫を遇し、而して諸藩の君主も彼等を養ひて、武門の士の能《よ》く謡曲を謳《うた》ふこと能はざるは恥辱の如き隆運に向へり。学芸に習《な》れず、奥妙なる宗教に養はれざる平民の趣味には、謡曲は到底応ずることを得ざるなり。故に彼等の中に自《おのづ》から新戯曲の発生熟爛するありて、巣林子の時代に於て其盛運を極めたり。物語の類、例《たと》へば太平記、平家物語、等《など》は高等民種の中《うち》に歓迎せられたりと雖《いへども》、平民社界に迎へらるべき様なし、かるが故に彼等の内には自ら、彼等の思想に相応なる物語、小説の類生れ出でたり、加ふるに三絃の発明ありてより、凡《すべ》ての趣味の調ふに於て大に平民社界を翼《たす》け、種々の俗曲なるもの発達し来れり。斯くの如く諸般の差別より観察し来れば、平民は実に徳川氏の時代に於て大に其思想を煥発《くわんぱつ》したるものにして、族制的大隔離の余《よ》を受けて、或意味に於ては高等民種に対して競争の傾きを成し来れるなり。
まことや平民と雖、もとより劣等の種類なるにあらず、社界の大傾向なる共和的思想は斯かる抑圧の間にも自然に発達し来りて、彼等の思想には高等民種に拮抗すべきものはなくとも、自ら不覊磊落《ふきらいらく》なる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なるものとなりて、以て暗《あん》に武門の威権を嘲笑せり。故に彼等は自然に政権を軽視して、幕府の紀律に繋がれざる豪放の素性を養ひ、社界全躰より視る時は一種の破壊的原素を其中に発生せしめて、大に幕府を苦しめたり。制禁に遭ひたる戯作の類、遠島に処せられたる画家の事、是が現象の一として挙ぐるに足るべし。漸く閭巷《りよかう》の侠客なるもの起り来りて、幕政を軽侮し、平民社界の保護者となり、圧抑者に対する破壊的手腕(天知子の語を借用す)となりたるも、是が一現象なりけり。
自然の傾向は人力の争ふこと能はざるものなり、従来文学なるものは独り高等民種の境内に止《とゞ》まりて、平民は一切思想上の自由を持たざりし如くなりしものが、軈《には》かに元禄以降の盛運に際会して、其思想界に多数の預言者を生みて、自から一貫の理想を形《かたちづ》くりたれば、其理想する紳士も、其理想する美人も、其理想する英雄も、有り/\と文学上に映現し出でたり。
こゝに注意を逃《の》がすべからざる一大現象は、遊廓なるものゝ大にこの時代に栄えたることなり、難波或は西京には古くよりこの組織ありしと雖、江戸にてこの現象の大にあらはれたる
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング