tふこと能はざるは恥辱の如き隆運に向へり。学芸に習《な》れず、奥妙なる宗教に養はれざる平民の趣味には、謡曲は到底応ずることを得ざるなり。故に彼等の中に自《おのづ》から新戯曲の発生熟爛するありて、巣林子の時代に於て其盛運を極めたり。物語の類、例《たと》へば太平記、平家物語、等《など》は高等民種の中《うち》に歓迎せられたりと雖《いへども》、平民社界に迎へらるべき様なし、かるが故に彼等の内には自ら、彼等の思想に相応なる物語、小説の類生れ出でたり、加ふるに三絃の発明ありてより、凡《すべ》ての趣味の調ふに於て大に平民社界を翼《たす》け、種々の俗曲なるもの発達し来れり。斯くの如く諸般の差別より観察し来れば、平民は実に徳川氏の時代に於て大に其思想を煥発《くわんぱつ》したるものにして、族制的大隔離の余《よ》を受けて、或意味に於ては高等民種に対して競争の傾きを成し来れるなり。
 まことや平民と雖、もとより劣等の種類なるにあらず、社界の大傾向なる共和的思想は斯かる抑圧の間にも自然に発達し来りて、彼等の思想には高等民種に拮抗すべきものはなくとも、自ら不覊磊落《ふきらいらく》なる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なるものとなりて、以て暗《あん》に武門の威権を嘲笑せり。故に彼等は自然に政権を軽視して、幕府の紀律に繋がれざる豪放の素性を養ひ、社界全躰より視る時は一種の破壊的原素を其中に発生せしめて、大に幕府を苦しめたり。制禁に遭ひたる戯作の類、遠島に処せられたる画家の事、是が現象の一として挙ぐるに足るべし。漸く閭巷《りよかう》の侠客なるもの起り来りて、幕政を軽侮し、平民社界の保護者となり、圧抑者に対する破壊的手腕(天知子の語を借用す)となりたるも、是が一現象なりけり。
 自然の傾向は人力の争ふこと能はざるものなり、従来文学なるものは独り高等民種の境内に止《とゞ》まりて、平民は一切思想上の自由を持たざりし如くなりしものが、軈《には》かに元禄以降の盛運に際会して、其思想界に多数の預言者を生みて、自から一貫の理想を形《かたちづ》くりたれば、其理想する紳士も、其理想する美人も、其理想する英雄も、有り/\と文学上に映現し出でたり。
 こゝに注意を逃《の》がすべからざる一大現象は、遊廓なるものゝ大にこの時代に栄えたることなり、難波或は西京には古くよりこの組織ありしと雖、江戸にてこの現象の大にあらはれたる
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