他界に対する観念
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)愬《うつた》へしめ、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)到底|所謂《いはゆる》

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(例)※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]

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(例)もろ/\
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 悲劇必らずしも悲を以て旨とせず、厭世必らずしも厭を以て趣とせず、別に一種の抜く可からざる他界に対する自然の観念の存するものあり、この観念は以て悲劇を人心の情世界に愬《うつた》へしめ、厭世を高遠なる思想家に迎へしむ、人間ありてよりこの観念なきはあらず、或は遠く或は近く、大なるものあり、小なるものあり、宗教この観念の上に立ち、詩想この観念の糧《かて》に活《い》く。
 この観念は世界の普通性なり、而《しか》してこの観念あると共に離る可からざるものは、この観念に二元性《ヂユアリズム》ある事なり。或は善悪と云ひ、或は陰陽と言ひ、或は光暗と云ふが如き、ペルシヤのむかしに、アームズトの神、アハメルの神ありし如く、イスラエルのむかしに、ヱホバ神と悪魔とを対比せし如く、顕著なると顕著ならざると、一神と多神との区別あり、あらざるとに拘《かゝは》らず、彼の元を二にするの性は此観念に離れざるなり。凡《およ》そ詩歌あるの国に於て鬼[#「鬼」に白丸傍点]といふ字のあらざるはなかるべく、神[#「神」に白丸傍点]といふ字のあらざるはなかるべし、コメデイ或は鬼神なきの国にも発達するを得ん、トラゼヂイに至りては必らず鬼神なきの国に興るべからず、シユレーゲルも論じて古神学は希臘《ギリシヤ》悲劇の要素なりとは言へり、げにやソホクルス以下の名什《めいじふ》も、彼国に鬼神なかりせば恐らくは伝ふる程の物にてはあらざりしならむ。
 フヱーリイあり、ヱンゼルあり、サイレンあり、スヒンクスあり、或は空中に棲《す》めるものとし、或は地上の或奥遠なるところに住めりとなす、共に他界に対する観念なり、遠近は世界の広狭によりて差ありしのみ。或は聖美なるもの、或は毒悪なるもの、或は慈仁なるもの、或は獰猛《だうまう》なるもの、宗教の変遷、思想の進達に従ひて其形を異にするが如しと雖《いへども》、要するに二岐に分れたる同根の観念なり。
 ギヨオテのメヒストフエリスを捕捉して其曲中に入らしむるや、必らずしも斯《かく》の如き他界の霊物実存せりと信ぜしにもあらざるべし、余が他界に対する観念を論じて、詩歌の世界に鬼神を用ふる事を言ふも、強《し》いて他界の鬼神を惑信するにはあらず。詩歌の世界は想像の世界にして、霊あらざるものに霊ありとし、人ならざるものに人の如くならしめ、実ならざるものを実なるが如くし、見るべからざるものを見るべきものとするは、此世界の常なり、万有教あらざる前に此世界には既に万有教の趣味あり、形而上の哲学あらざる前に此世界には既に形而上の観念あり、想像は必らずしもダニヱルの夢の如くに未来を暁《さと》らしむるものにあらざるも、朝に暮に眼前の事に齷齪《あくさく》たる実世界の動物が冷嘲する如く、無用のものにはあらざるなり。漠々茫々たる天地、英国の大詩人をして、
[#ここから2字下げ]
There are more things in heaven and earth,
   Horatio,
Than are dreamt of in your philosophy.
[#ここで字下げ終わり]
と畏《おそ》れしめたるもの、豈《あに》偶然ならんや。
「ハムレツト」の幽霊は実に此観念、この畏怖より、シヱークスピアの懐裡《くわいり》に産《うま》れたり。其来るや極めて厳粛に極めて凄※[#「りっしんべん+宛」、第3水準1−84−51]《せいわん》なり、恰《あたか》も来らざるべからざる時に来るが如く、其去るや極めて静寂なり、極めて端整なり、恰も去らざる可からざる時に去るが如し。来るや他界より歩み来りたる跡を隠さず、去るや他界に去るの意を蔽はず、極めて熱熾《アーネスト》なる悲劇の真中に、極めて幽玄なる光景を描き出す、茲《こゝ》に於て平生幽霊を笑ふものと雖、悚然《しようぜん》として人界以外に畏るべきものあるを識《し》り、悪の秘し遂ぐべからざるを悟る。彼一篇より幽霊の作意を除き去らばいかに、恐らくはシヱーキスピーア遂に今日のシヱーキスピーアにあらざりしなるべし。
 長足の進歩をなせる近世の理学は、詩歌の想像を殺したりといふものあれど、バイロンの「マンフレツド」、ギヨオテの「フオウスト」などは実に理学の外に超絶したるものにあらずや、毒鬼を仮来《かりきた》り、自由自在にネゲイシヨンの毒薬を働かせ、風雷の如き自然力を縦《ほしいまゝ》にする鬼神を使役して、アルプス山に玄妙なる想像を構へたるもの、何ぞ理学の盛ならざりし時代の詩人に異ならむ、その異なるところを尋ぬれば、古代鬼神と近世鬼神との別あるのみ。詩の世界は人間界の実象のみの占領すべきものにあらず、昼を前にし夜を後にし、天を上にし地を下にする無辺無量無方の娑婆《しやば》は、即ち詩の世界なり、その中に遍満するものを日月星辰の見るべきものゝみにあらずとするは、自然の憶度《おくど》なり。生死[#「生死」に白丸傍点]は人の疑ふところ、霊魂[#「霊魂」に白丸傍点]は人の惑ふところ、この疑惑を以て三千世界に対する憶度に加ふれば、自からにして他界を観念せずんばあらず。地獄を説き天堂を談ずるは、小乗的宗教家の癡夢《ちむ》とのみ思ふなかれ、詩想の上に於て地獄と天堂に対する観念ほど緊要なるものはあらざるなり。
 新教勃興後の基督《キリスト》教国は一般に新活気を文学に加へたり、其然る所以《ゆゑん》のものは基督のみ是を致せしにあらず、悪魔も与《あづか》りて力あるなり、言を換へて云へば、聖善なる天力《ヘブンリー・パワー》に対する観念も、邪悪なる魔力《サタニツク・パワー》も共に人間の観念の区域を拡開したるものにして、一あつて他なかるべからず、基督の神性は東洋の唯心的思想が達せしむる能はざるところに観念を及さしむると共に、サタンの魔性は東洋の悪鬼思想の到らざるところまで観念を達せしむ。一神教の裡面《りめん》は一魔教なり、多神教の裡面は即ち多鬼教なり、一神教には中心の権あるが故に中心の善美あり、是と同時に一魔教にも中心の統御あるが故に中心の毒悪あり、一のポジチーブに対して一のネガチーブあり、多のポジチーブに対して多のネガチーブあるは当然の理なり。斯《かく》の如くなるが故に、欧洲諸国に行はるゝ詩想は日本に求むべからず、善美なるものに対する観念も醜悪なるものに対する観念も、中心を有せず焦点を有せざるが故に、遠大高深なる鬼神を詩想中に産み出す事を得ざるなり。
 漫然語を為《な》すものあり、曰く、我国にも幽玄高妙なる想詩を構ふるに足るべき古神学あるにあらずやと。余を以て是を見れば、我国の古神学は或は俗を喜ばすべき奇異譚を編むには好材料たるべきも、到底|所謂《いはゆる》幽玄《ミステリー》を本とする想詩を構ふるに適するものならず。其第一の理由は、到底今日を以て往古の古神学を用ふる事能はざること是なり、即ち古神の詩歌に入るは少くも古神に対する信仰ある時代にあらざれば不可なり、「フオウスト」を構へたるギヨオテは近世の鬼神を中古の物語に応用したるなり、古代の鬼神を近代の物語に箝《は》めて玄妙なる識想を愬《うつた》へんとするは、到底為すべからざる事なり。再言すれば我国の古神は既に文学上に於て死神なり、いかなるジニヤスの力を以ても復活せしむべからざればなり。其第二の理由は、我国の古神は霊躰にあらずして人間なること是なり、出没自在の神通力あるにあらず、宇宙万有を統治するものにあらず、報罰の全権を掌握するものにあらず、其天界に領有するところ多からず、ジニヤスの力ありとも是を仮用するに道なからむ。第三の理由は、其複数なること是なり、前に言ひたる事あれば重ねて説かず。斯の如く我邦《わがくに》の文学は古神学に恵まるゝところ極めて少なし。
 仏教侵来以後の日本は、他界に対する観念の発達大に著るしきを示せり。然れども想像的鬼神の輸入あると共に一方に於ては、万葉時代に行はれたる単純なる、「自然力」に対する恐怖を、其心外無法の斧を以て破砕したり。精霊の思想は以て幽霊の新題目を文学に加ふるところありしと雖、一方に於ては輪転あり、無常あり、寂滅あり、以て人間の思慕を截断《せつだん》し、幽奥なる観念を遮《さへぎ》るに足りしなり。仏教文学の精粋と呼ばれたる謡曲の中に極めて普通なる幽霊の思想は、人間の喜怒哀楽等の情意に動かされて浮き出るものにして、人間を其儘なり、彼の O, all you host of heaven! と冒頭に書出して、幽霊と他界の悪霊と協合したるものゝ如くに見《あら》はす者に比す可きにあらず、況《いは》んや狂公子のみに見えて其母には見えざる如き妙味に至りては、到底わが東洋思想の企及する所にあらざるなり。母にのみ見えて公子に見えざる一事は、我が戯曲の中にも其例を得るに難からず、然れども怨恨《ゑんこん》する目的物に見えずして狂公子にのみ見ゆるは、其倫を我文学に求むるを得ず。天界と地界と所を異にするが故に、容易に其形を現ずること能はざるは沙翁の幽霊なり、其現ずるは主観的|願欲《デザイア》を以て現ずるにあらず、客観的|圧抑《プレツシユア》によつて現ず、自由の意志を以て現ずるにあらず、自然の傾として現ぜしなり、「ハムレツト」の幽霊はジニヤスの力のみにて然るにあらず、その東洋の幽霊と相異なるところ、自《おのづ》から其他界に対する観念の遙《はるか》に我と違ふところあればなり。
 物語時代の「竹取」、謡曲時代の「羽衣」、この二篇に勝りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず。而してこの二篇の結構を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]し、その仙女の性質を察するに、両者共に月宮に対する人間の思慕を化躰《けたい》せしに過ぐるなし。「竹取」の仙女は人界に生れて人界を離れ、「羽衣」の仙女は暫らく人界に止まりて人界を去れり、共に帰るところは月宮なり。蓋《けだ》し人界の汚濁を厭ふの念はいかなる時代にも、いかなる人種にも抽《ぬ》くべからざるものなるが故に、他界を冥想し、美妙を思欲するの結果として、心を月宮に寄するは自然の理なれども、この冥想、この観念の月宮にのみ凝注《ぎようちゆう》したるは、我文学の不幸なり。月宮は有形の物なり、月宮は宇宙の一小部分なり、人界に近き一塊物なり、その中には自在力あらず、その中には大魔力あらず、無辺無涯の美妙を支給すべきにあらざるなり。故に月宮を美妙の観念の中心としたる我文学は(前述二篇に就きて曰ふ)、一神教国に於ける宇宙万有の上に臨める聖善なるものを中心として、万有趣味の観念を加へしめたるものに、及ぶ能はず。竹、羽、二篇は実に固有の古神思想と仏教思想とを併せ備へたるものなるに、その結果斯の如くなりとせば、我邦理想詩人の前途、豈《あに》※[#「りっしんべん+音」、112−上−23]然《あんぜん》ならざらんや。(嵯峨のやの「夢現境」をも参考あらん事を請ふ。)
 我風流吟客を迷はせたるもの、雪月花の外はあらず、此一事も亦た以て我文学の他界に対する美妙の観念に乏しきを証するに足るべし。我文学を繊細巧妙にならしめて、崇高壮偉にならしむる能はざりしもの、畢竟《ひつきやう》するに他界の観念なくして、接近せる物にのみ寄想したればなり。
 我文学に恋愛なるものゝ甚だ野鄙《やひ》にして熱着ならざりしも、亦《ま》た他界に対する観念の欠乏せるに因するところ多し、「もろ/\の星くづを君の姿にして」などやうなる詞《ことば》は、到底我詩界に求むること能はじ。実界にのみ馳求する思想は、高遠なる思慕を産《う》まず、我恋愛道の、肉情を先にして真正の愛情を後
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