傾として現ぜしなり、「ハムレツト」の幽霊はジニヤスの力のみにて然るにあらず、その東洋の幽霊と相異なるところ、自《おのづ》から其他界に対する観念の遙《はるか》に我と違ふところあればなり。
 物語時代の「竹取」、謡曲時代の「羽衣」、この二篇に勝りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず。而してこの二篇の結構を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]し、その仙女の性質を察するに、両者共に月宮に対する人間の思慕を化躰《けたい》せしに過ぐるなし。「竹取」の仙女は人界に生れて人界を離れ、「羽衣」の仙女は暫らく人界に止まりて人界を去れり、共に帰るところは月宮なり。蓋《けだ》し人界の汚濁を厭ふの念はいかなる時代にも、いかなる人種にも抽《ぬ》くべからざるものなるが故に、他界を冥想し、美妙を思欲するの結果として、心を月宮に寄するは自然の理なれども、この冥想、この観念の月宮にのみ凝注《ぎようちゆう》したるは、我文学の不幸なり。月宮は有形の物なり、月宮は宇宙の一小部分なり、人界に近き一塊物なり、その中には自在力あらず、その中には大魔力あらず、無辺無涯の美妙を支給すべきにあらざるなり。故に月宮を美妙の観念の中心としたる我文学は(前述二篇に就きて曰ふ)、一神教国に於ける宇宙万有の上に臨める聖善なるものを中心として、万有趣味の観念を加へしめたるものに、及ぶ能はず。竹、羽、二篇は実に固有の古神思想と仏教思想とを併せ備へたるものなるに、その結果斯の如くなりとせば、我邦理想詩人の前途、豈《あに》※[#「りっしんべん+音」、112−上−23]然《あんぜん》ならざらんや。(嵯峨のやの「夢現境」をも参考あらん事を請ふ。)
 我風流吟客を迷はせたるもの、雪月花の外はあらず、此一事も亦た以て我文学の他界に対する美妙の観念に乏しきを証するに足るべし。我文学を繊細巧妙にならしめて、崇高壮偉にならしむる能はざりしもの、畢竟《ひつきやう》するに他界の観念なくして、接近せる物にのみ寄想したればなり。
 我文学に恋愛なるものゝ甚だ野鄙《やひ》にして熱着ならざりしも、亦《ま》た他界に対する観念の欠乏せるに因するところ多し、「もろ/\の星くづを君の姿にして」などやうなる詞《ことば》は、到底我詩界に求むること能はじ。実界にのみ馳求する思想は、高遠なる思慕を産《う》まず、我恋愛道の、肉情を先にして真正の愛情を後
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