はず、然るに例の口善悪なき京童等は、高蹈派とは足の無き仙人の事なり、足の無き仙人とは「文学界」の連中であらうなど言散らして、矢鱈《やたら》に仙人よばりせられんは余り嬉しき事にあらず。尤も「高蹈派」一条は、「人生問題」とは全く離れたる者なり。人性といふ字も人情といふ字も余り見受けざれば、京童が誤解の種も自然少なき筈なり。
右の如く、「人生」といふ字の意義によりては、議論も種々になるべければ、傍より口を出す人々は能々《よく/\》御熟考の上にて御名論を出され可くと存ず。更に之を言へば、余(「文学界」といふ団躰を離れて)と愛山君との議論の焼点は、文学は必らずしも写実的の意義を以て人生に相渉らざる可からざるか、或は又た理想といふものを人生に適用することを許すものなりやの如何《いかん》にあり。余は理想家でも何でも無し、唯だ余り酷《きび》しく文学を事実《ファクト》に推しつけたがるが愛山君の癖なれば、一時の出来心にて一撃を試みたるのみ、考へて見ればつまらぬ喧嘩にあらずや。
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愛山君も人が悪るい御方ならずや。僕が「人生相渉論」を難じて君を苦しめたる返報には、唯心的とか凡
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