人生の意義
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)豈《あに》敢て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)吾人|素《もと》より

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)赤心[#「赤心」に傍点]を

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もろ/\の学芸
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 人間の外に人間を研究すべき者なし、ライフある者の外にライフを研究すべき者なし。近頃ライフの一字、文学社会に多く用ひらるゝに至れるを見て、ひそかに之を祝せんとするの外、豈《あに》敢て此大問題を咄嗟《とつさ》の文章にて解釈することをせんや。然るに吾人が爰《こゝ》にて物好きにも少しくライフの意義に就きて言はんと欲するに至りたるは、決して偶然の事にあらざるなり。
 ライフの一字に真正の解釈を加へんとせば、汎く哲学、宗教、及び諸科学に渉りて之を窮めざるべからず、何となれば、もろ/\の学芸は実にライフを解釈するが為に成立すと云ふとも不可なき程なればなり。然れども、吾人|素《もと》より哲学者にあらず、曷《いづく》んぞ斯かる面倒なる事を議論するの志あらんや。然るに近頃吾人を評難する者あり、吾人「文学界」の一団を以て、ライフに関する、すべての事を軽んずる者の様に言ひ做《な》して、頻《しきり》に攻撃を試むると覚えたり。余は一個人としては、「文学界」の社末に連れる若年書生のみ、「文学界」全躰として受けたる攻撃に対しては、従来編輯の要務に当れる天知翁の申開《まうしひらき》ありと聞けば、余は決して「文学界」全躰としての攻撃に当る事をせじ、唯だ余一個に対しての攻撃即ち人生問題に関しては、飽《あく》まで其責を負ふ積なり。然れども、讒謗《ざんばう》罵詈《ばり》を極めたるものに対しては、例令《たとひ》如何なる名説なりとも、又如何なる毒説なりとも、之に対して何等の答弁をも為《なさ》ざるべし、余は批評を好むものなり、争ふことを好むものなり、争ふは争ふ為にせざるなり、文章の争に於て敵を作るとも、人と人との間に於て敵を作るを好まざるなり、故に余は讒謗罵詈の始まりたる喧嘩には御暇を頂戴すべし、政党などの争には随分反目疾視してステッキ騒ぎまで遣《や》るも好し、思想界に於て此の真似をせば、世人誰れか之を健全なる喧嘩と言はむ。
 そも人生といへる言葉には種
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