一局部の原野にあらず、広大なる原野なり、彼は事業を齎《もた》らし帰らんとして戦塲に赴かず、必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家を出《いづ》るなり。斯の如き戦塲に出で、斯の如き戦争を為すは、文士をして兵馬の英雄に異ならしむる所以《ゆゑん》にして、事業の結果に於て、大に相異なりたる現象を表はすも之を以てなり。
 愛山生が、文章即ち事業なりと宣言したるは善し、然れども文章と事業とを都会の家屋の如く、相接近したるものゝ如く言ひたるは、不可なり。敢て不可といふ。何となれば、聖浄にして犯すべからざる文学の威厳は、「事業」といふ俗界の「神」に近づけられたるを以て損ずべければなり、八百万《やほよろ》づの神々の中に、事業といふ神の位地は甚だ高からず。文学といふ女神は、或は老嬢《ヲールド・ミツス》にて世を送ることあるも、卑野なる神に配することを肯《がへ》んぜざるべければなり。
 京山、種彦、馬琴の三文士を論《あげつら》ひて、京山を賞揚せられたるは愛山生なり。其故いかにといふに、馬琴は己れの理想を歌ひて馬琴の文学を衒《てら》ひたるに過ぎず、種彦は人品高尚にして俗情に疎《うと》きところあり、馬琴によりては当時の社会を知るには役に立たず、種彦は平民に縁遠きが故に不可なり、独り京山に到りては、番頭小僧までも写実して残すところなきが故に重んずべきなりと、斯く愛山生は説けり。天下の衆生をして悉《こと/″\》く愛山生の如き史論家ならしめば、当時の社会を知るの要を重んじて、京山をも、西鶴をも、最上乗の作家として畏敬するなるべし。天下の衆生をして悉く愛山生の如き平民論者ならしめば、山東家の小説は凡《すべ》ての他の小説を凌《しの》ぐことを得べきこと必せり。
 然れども文学は事業を目的とせざるなり、文学は人生に相渉ること、京山の写実主義ほどになるを必須とせざるなり、文学は敵を目掛けて撃ちかゝること、山陽の勤王論の如くなるを必須とせざるなり、最後に文学は必らずしも一人若しくは数百人の敵、見るべきの敵を目掛けて撃つを要せざるなり、撃[#「撃」に白丸傍点]といふ字は山陽一流の文士にこそ用あれ、愛山の所謂《いはゆる》空の空を目掛けて大《おほい》に撃つ文士に、何の用かあらむ。山陽も撃てり、山陽の撃ちたる戦は、今日に於て人に記憶せらるゝなり、然れども其の撃ちたるところは、愛山生の言ふ如く直接に人生に相渉れり、人生に相渉るが故に人生を離るゝ事も亦た速《すみやか》ならんとす。源頼朝は能く撃てり、然れども其の撃ちたるところは速かに去れり、彼は一個の大戦士なれども、彼の戦塲は実に限ある戦塲にてありし、西行も能く撃てり、シヱクスピーアも能く撃てり、ウオーヅオルスも能く撃てり、曲亭馬琴も能く撃てり、是等の諸輩も大戦士なり、而して前者と相異なる所以は前者の如く直接の敵[#「直接の敵」に傍点]を目掛けて限ある戦塲[#「限ある戦塲」に傍点]に戦はず、換言すれば天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に、愛山生には空の空を撃ちたりと言はれんも、空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせしにあるのみ。行《ゆ》いて頼朝の墓を鎌倉山に開きて見よ、彼が言はんと欲するところ何事ぞ。来りて西行の姿を「山家集《さんかしふ》」の上に見よ。孰《いづ》れか能く言ひ、執れか能く言はざる。
 然れども、文士は世を益せざるべからず、西行馬琴の徒が益したるところ何物ぞと、斯く愛山生は問はむか。
 文学のユチリチー論、今日に始まりたるにあらず、吾等の先祖に勧善懲悪説あり、吾等の同時代に平民的批評家としての活用論者を、愛山生に得たるも故なきにあらず、硝子《ガラス》は水晶に比して活用の便あり、以て※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]戸を装ふべし、以て洋燈のホヤとなすべし、天下|普《あまね》く其の活用の便を認むるを得るなり。然れども天下の愚人が水晶といふ活用の便に乏しきものに向つて、高価を払ふは何ぞや。水晶を買ふものをして、数十金を出して露店の硝子玉を買はしめんとする神学を創見するものあらば、余は疑はず、水天宮に参詣する衆生は争ひ来りて其説法を聴聞するなるべし。京山をして、山陽をしてこのテンプルの偶像たらしめば、カーライルをして「英雄崇拝論」に一題を欠きたりしを、地下に後悔せしむることあるべし。
 吉野山に遊覧して、歎息するものあり、曰く、何ぞ桜樹を伐《き》りて梅樹を植ゑざる、花王樹は何の活用に適するところあらむ、梅樹の以て千金の利を果実によつて得るに如《し》かんやと、一人ありて傍より容喙《ようかい》して曰へらく、梅樹は得るところの利に於て甘藷《かんしよ》を作るに如かず、他の一人は又た曰く、甘藷は市場に出ての相塲極めて廉なり、亜米利加《アメリカ》種の林檎《りんご》を植ゆるに如かずと。われは是等の論者が利を算するの速なるを喜び、
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