聖に至りては、我は之を人間界に索《もと》むるの愚を学ぶ能はず。然り、大知、大能、大聖は人間界に庶幾《しよき》すべからず、然れども是を以て人間の霊活を卑《ひく》うするところはなきなり、人間と呼べる一塊物(A piece of work)を平穏静着なるものとする時は、何の妙観あるを知らず、善あり、悪あり、何等思議すべからざるところありて始めて其本性を識得するを得《うる》なり、善鬼悪鬼美鬼醜鬼、人間の心池に混交し、乱戦するを以て始めて人間なるものゝ他の動物と異なる所を見るべし。
 神の如き性、人の中にあり、人の如き性、人の中にあり、此二者は常久の戦士なり、九竅《きうけう》の中《うち》にこの戦士なければ枯衰して人の生や危ふからむ。神の如き性を有《たも》つこと多ければ、戦ひは人の如き性を倒すまでは休まじ、休むも一時にして、程|経《ふ》れば更に戦はざる能はず。人の如き性を有《たも》つこと多ければ終身|惘々《まう/\》として煩ふ所なく、想ふ所なく、憂ふる所なからむ。この両性の相闘ふ時に精神活きて長梯を登るの勇気あり、闘ふこと愈《いよ/\》多くして愈激奮し、その最後に全く疲廃して万事を遺《わす》る、この時こそ、悪より善に転じ、善より悪に転ずるなれ、この疲廃して昏睡するが如き間に。
 人の一生を水晶の如く透明なるものと思惟するは非なり、行ひに於いては或は完全に幾《ちか》きものあらむ、心に於ては誰か欠然たらざる者あらむ。人は到底絶対的に善なるものとなること能はず、然《さ》れども或限りある「時」の間に於て、極めて高大なりと信ずる事は出来ざるにあらず、其限りある時間の長短は一問題なり、われは思ふ、其極めて短かきは石火の消えぬ間にして、長きも流星の尾に過ぎじ。虚無を重んじ無為を尚ぶも畢竟この理に外ならず、施為《せゐ》多く思想豊かにして而して高遠なること能はざるは、寧ろ彼《か》の施為なく思想なくして、石火中の大頓悟を楽しむに如《し》かじとすらむ。
 文覚の袈裟《けさ》に対するや、如何《いか》なる愛情を有《たも》ちしやを知らず、然れども世間彼を見る如き荒逸なる愛情にてはあらざりしなるべし。当時夫婦間の関係を推《すゐ》するに、徳川氏時代の如く厳格なるべきものにあらず、袈裟の如き堅貞の烈女、実際にありしものなりや否やを知らず、常磐《ときは》の如き、巴《ともゑ》の如き節操の甚だ堅からざる女人《をんな》多き時代にありて、袈裟御前なるもの実際世にありしか、或は疑ひを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]むの余地なきにあらず。然れども凡てのドラマチカルの事蹟を抹殺し去りても、文覚が其妄愛に陥りし対手を害せし事は事実なるべし。文覚が世に伝説するが如き驕暴なるものにあらずとするも、少なくとも癡迷惑溺《ちめいわくでき》の壮年たりしことは許諾せざるべからず。
 渠《かれ》は「油地獄」の主人公の如く癡愚無明なりしものなるか。余は、しかく信ずること能はず。彼の文、彼の識、世間の道法を弁ぜざるものとは認め難し。然《さ》れども渠は迷溺するを免かれざりしなるべし、彼の本地は世間の道法に非ず、世間の快楽にあらず、世間の功利にあらず、進取にあらず、退守にあらず、全然一個の腕白むすこたりしなるべく、何物にか迷ひ何物にか溺るゝにあらざれば、遂に一転するの機会は非ざりしなり。渠は凡《すべて》のものを蔑視したるなるべし、浄海も渠を怖れしめず、政権も渠を懸念せしめず、己れの本心も渠を躊躇《ちうちよ》せしむるところなく、激発暴進、鉄欄《てつらん》の以て繋縛する者あるに至るまでは停駐するところを知らざるなり。
 渠は悪を悪とするを知る、然《さ》れども悪の悪なるが故に自《みづか》ら制止することは能はず、能はざるに非ず、するの意志を有せざるなり。善の善なることを知る、然《さ》れども善の善たるを知りて之を施《ほどこ》すことは能はず、能はざるに非ず、施すの念を有《たも》たざるなり。彼の一身は一側より言へば、わんぱくなり、他の一側より見れば頑執なり。人の婦《ふ》なることを知りて之を姦せんとす、元より非道なり、然《さ》れども彼は非道を世人の嫌悪する意味に於ての非道とせず。人を己れの慾情の為に殺害するの悖虐《はいぎやく》なるを知る、然《さ》れども悖虐を悖虐とする所以は極めて冷淡なる意味に於てなり。故に彼は此大悪を犯さんとする時に、左転右※[#「目+分」、第3水準1−88−77]《さてんうへん》せず、白刃を睡客に加ふるの時に於てすら、彼はなほ大悪の大悪たるを暁知せざるなり。
 斯《かく》の如くに冷絶なる傲漢《がうかん》をして曇天の俄然として開け、皎々たる玉女天外にひかり出でたるが如くならしめたる絶妙の変化は、いかにして来りたるか。殺人の大悪彼を驚懼《きやうく》せしめ、醒覚せしめしか。然
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