心機妙変を論ず
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)況《いは》んや
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)傲逸不遜|磊落《らいらく》奇偉の一人物
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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)惘々《まう/\》として
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哲学必ずしも人生の秘奥を貫徹せず、何ぞ況《いは》んや善悪正邪の俗論をや。秘奥の潜むところ、幽邃《いうすゐ》なる道眼の観識を待ちて無言の冥契を以て、或は看破し得るところもあるべし、然《さ》れども我は信ぜず、何者と雖《いへども》この「秘奥」の淵に臨みて其至奥に沈める宝珠を探り得んとは。
むかし文覚《もんがく》と称する一傲客、しばしが程この俗界を騒がせたり。彼は凡《すべ》ての預言者的人物の如く生涯真知己を得ることなく、傲逸不遜|磊落《らいらく》奇偉の一人物として、幾百年の後までも人に謳《うた》はれながら、一の批評家ありて其至真を看破し、思想界に紹介するものもなく今日に及びぬ。時なるかな、今年《こんねん》の文学界漸く森厳になりて、幾多思想上の英雄墳墓を出《いで》て中空に濶歩する好時機と共に、渠《かれ》も亦た高峻なる批評家天知子の威筆に捕はれて、明治の思想界に紹介せられたり。
天知君は文覚の知己なり、我は天知君をして文覚と手を携へて遊ばしむるを楽しむ、暗中禅坐する時、彼の怪僧天知君を訪《とぶ》らひ来て、豪談一夜|遂《つひ》に君を起《おこ》して彼の木像を世に顕はさしむるに至りたるを羨《うらや》まず。わが所望は一あり、渠が知己としてにあらず、渠が朋友としてにあらず、渠が裡面の傍観者として、渠の心機一転の模様を論ずるの栄を得む。
蓮池に臨みて蓮蕾《れんらい》の破るゝを見るは、人の難《かた》しとするところなり。蓮華何の精あるかを知らず、俗物の見るを厭ふて幾多の見物人を失望せしむること多しと聞く。暁鴉に先《さきだ》ちて寝床を出で、池頭に立ちて蓮女第一回の新粧を拝せんとするの志あるもの、既に俗物を以て指目するに忍びず、然《さ》れども佳人何すれぞ無情なる、往々にして是等の風流客を追ひ回《か》へすことあるは。人間界の心池の中に霊活なる動物の、心機妙転の瞬時の変化も、或は蓮花開発に似たるところあり。
風静かに気沈み万籟《ばんらい》黙寂たるの時に、急卒一響、神装を凝《こ》らして眼前《めのまへ》に亢立《かうりつ》するは蓮仙なり、何の促すところなく、何の襲ふところなく、悠然泥上に佇立《ちよりつ》する花蕾の、一瞬時に化躰して神韻高趣の佳人となるは、驚奇なり、然《しか》り驚奇なり、極めて普通なる驚奇なり、もし花なく変化なきの国あらば、之を絶代の奇事と曰はむ。絶代の奇事にして奇事ならざるもの、自然の妙力が世眼に慣れて悟性を鈍くしたるの結果とや言はむ。
人間の心機に関して深く観察する時は、この普通なる驚奇の変化最も多く、各人の歴史に存するを見る。然りこの変化の尤も多くして尤も隠れ、尤も急にして尤も不可見《みるべからざる》のもの、他の自然界の物に比すべくもあらざるものあるは、人生の霊活を信ずるものゝ苟《いやし》くも首肯《しゆこう》せざるはなきところなり。悪を悪なりとし、善を善なりとし、不徳を不徳とし、非行を非行とするは、俗眼だも過《あやま》つことなきなり、但《たゞ》夫れ悪の外被に蔽はれたる至善あり、善の皮肉に包まれたる至悪あるを看破するは、古来哲士の為難《なしがた》しとするところ、凡俗の容易に企つる能《あたは》ざる難事なり。もし夫れ悪の善に変じ、善の悪に転じ、悪の外被に隠れたる至善の躍り出で、善の皮肉に蔵《かく》れたる至悪の跳《は》ね起るが如き電光一閃の妙変に至りては、極めて趣致あるところ、極めて観易からざるところ、達士も往々この境に惑ふ。
人間の無為は極めて暗黒なるところと極めて照明なるところとあり。その無心の域《さかひ》に入れりとすべきは、生涯の中《うち》に幾日もあらず。誰か能《よ》く快楽と苦痛の覊束《きそく》を脱離し得たるものぞ。誰か能く浄不浄の苦闘を竟極《きやうきよく》し得たるものぞ。誰か能く真《まこと》に是非曲直の鉄鎖を断離し得たるものぞ。唯だ夫れ人間に賢愚あり、善悪あり、聖汚あるは、その暗黒と照明との時間の「長さ」を指すべきのみ。いかに公明正大を誇負する人ありとも、我は之を諾する能はず、畢竟するにその所謂《いはゆる》公明なる所以《ゆゑん》のものは、暗黒の「影」の比較的に薄きに過ぎず、照明なる時間の比較的に長きに過ぎず、真の大知、大能、大
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