《しか》らず。彼は始めより畏懼を知らず。彼に妙変を与へたるもの、別に存するあり、少しく是を言はむ。
 彼は此の際に於て、天地の至真を感ぜし事其一なり。凡《すべ》てのものを蔑視したる彼は今、女性の真美を感得せり、血肉あるの女性は血肉の美を示せども、天地の至妙を示すものにあらず、始め貞操を以て辞せしものも、人間を嘲罵する彼の心絃には触れざりしを、この際に於て豁然《くわつぜん》悟発して、人間に至真の存するあるを暁《さと》らしめたり。
 彼はこの際に於て、己れの意中物を残害すると同時に、己れの迷夢をも撃破し了れり。彼の惑溺は袈裟ありて然るにあらざりしも、この袈裟の横死は彼が一生の惑溺を医治したり。意中物は己れの極致なり、己れの極致を殺したる時に、いかで己れの過去を存することを得む。彼は極致と共に死したり、而して他の極致を以て更生するまでの間は所謂《いはゆる》無心無知の境なり、激奮猛奔して、而して中奥に眠熟《みんじゆく》するが如き境なり、この境を過ぐるは心機一転に欠くべからず、而してこの境は石火なり、流星なり、数秒時間なり。この数秒時間の後に、他の極致は歩を進めて彼の中《うち》に入る、しばらく混乱したる後に彼は新生の極致を得て、全く向前《かうぜん》の生命と異なるものとなるなり。
 彼はこの際に於て天地の実《じつ》を覚知せり。「死」、彼に於て何の恐るゝところなく、生、彼に於いて何の意味あるかを知らしめず、茫々たる天地、有にもなく無にもなきに似たる有様にありしものが、始めて「死」といふ実を見たり。死は永遠の死にして、再見の機あらざるべき実を知りたり。無常彼に迫りて、無常の実を示し、離苦彼を囲みて、離苦の実を表はし、恋愛その偽装を脱して、恋愛の実を顕はし、痴情その実躰を現じ、大悪その真状を露はし、彼をして棘然《きよくぜん》として顛倒せしめ、然《しか》る後《のち》に彼をして始めて己れの存立の実なると天地万有の実なるとを覚知せしめたり。而して彼をして天地神明に対して、極めて真面目なるものとならしめたり。
 彼はこの際に於て、恋愛の至道と妄愛の不義とを悟れり。曩《さき》に愛慕したるもの真《まこと》の愛慕にあらず、動物的慾愛に過《すぐ》るところあらざりし。然《さ》れども事の茲《こゝ》に至りて、始めて妄執の妄執たるを達破し、妄愛の纏※[#「夕/寅」、第4水準2−5−29]《てんいん》したるを
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