多き時代にありて、袈裟御前なるもの実際世にありしか、或は疑ひを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]むの余地なきにあらず。然れども凡てのドラマチカルの事蹟を抹殺し去りても、文覚が其妄愛に陥りし対手を害せし事は事実なるべし。文覚が世に伝説するが如き驕暴なるものにあらずとするも、少なくとも癡迷惑溺《ちめいわくでき》の壮年たりしことは許諾せざるべからず。
 渠《かれ》は「油地獄」の主人公の如く癡愚無明なりしものなるか。余は、しかく信ずること能はず。彼の文、彼の識、世間の道法を弁ぜざるものとは認め難し。然《さ》れども渠は迷溺するを免かれざりしなるべし、彼の本地は世間の道法に非ず、世間の快楽にあらず、世間の功利にあらず、進取にあらず、退守にあらず、全然一個の腕白むすこたりしなるべく、何物にか迷ひ何物にか溺るゝにあらざれば、遂に一転するの機会は非ざりしなり。渠は凡《すべて》のものを蔑視したるなるべし、浄海も渠を怖れしめず、政権も渠を懸念せしめず、己れの本心も渠を躊躇《ちうちよ》せしむるところなく、激発暴進、鉄欄《てつらん》の以て繋縛する者あるに至るまでは停駐するところを知らざるなり。
 渠は悪を悪とするを知る、然《さ》れども悪の悪なるが故に自《みづか》ら制止することは能はず、能はざるに非ず、するの意志を有せざるなり。善の善なることを知る、然《さ》れども善の善たるを知りて之を施《ほどこ》すことは能はず、能はざるに非ず、施すの念を有《たも》たざるなり。彼の一身は一側より言へば、わんぱくなり、他の一側より見れば頑執なり。人の婦《ふ》なることを知りて之を姦せんとす、元より非道なり、然《さ》れども彼は非道を世人の嫌悪する意味に於ての非道とせず。人を己れの慾情の為に殺害するの悖虐《はいぎやく》なるを知る、然《さ》れども悖虐を悖虐とする所以は極めて冷淡なる意味に於てなり。故に彼は此大悪を犯さんとする時に、左転右※[#「目+分」、第3水準1−88−77]《さてんうへん》せず、白刃を睡客に加ふるの時に於てすら、彼はなほ大悪の大悪たるを暁知せざるなり。
 斯《かく》の如くに冷絶なる傲漢《がうかん》をして曇天の俄然として開け、皎々たる玉女天外にひかり出でたるが如くならしめたる絶妙の変化は、いかにして来りたるか。殺人の大悪彼を驚懼《きやうく》せしめ、醒覚せしめしか。然
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