情熱の最後の洗礼によりて、終に殆んど絶対的の奇観を呈す。
 詩人は人類を無差別《ヂスインテレステツド》に批判するものなり、「神聖」も、「純潔」も或一定の尺度を以て測量すべきものにあらず、何処《どこ》までも活《い》きたる人間として観察すべきものなり、「時」と「塲所」とに涯《かぎ》られて、或る宗教の形《フオーム》に拘《かゝ》はり、或る道義の式《システム》に泥《なづ》みて人生を批判するは、詩人の忌むべき事なり。人生の活相を観ずるには極めて平静なる活眼を以てせざるべからず。写実《リアリズム》は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たるや、自から其の注目するところに異同あり、或は殊更《ことさら》に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は特更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束《おぼつか》なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭ふものにあらず、然れども卑野なる目的に因つて立てる写実は、好美のものと言ふべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすの弊を免れ難し。若《も》し夫れ写実と理想と兼ね備へたるものに至りては、情熱なくして如何に其の妙趣に達するを得べけんや。
 情熱は※[#「虎」の「儿」に代えて「丘」、第3水準1−91−45]思《きよし》の反対なり、情熱は執[#「執」に傍点]なり、放[#「放」に傍点]にあらず。凡そ情熱のあるところには必らず執《まも》るところあり、故に大なる詩人には必らず一種の信仰あり、必らず一種の宗教あり、必らず一種の神学あり、ホーマーに於て希臘《ギリシヤ》古神の精を見る、シヱーキスピーアに於て英国中古の信仰を見る、西行に於て西行の宗教あり、芭蕉に於て芭蕉の宗教あり、唯だ俗眼を以て之を視ること能はざるは、凡《すべ》ての儀式と凡ての形式とを離れて立てる宗教なればなり。彼等の宗教的観念は具躰的なるを得ざるも、之を以て宗教なしと言ふは、宗教の何物たるを知らざる論者の見なり。人類に対する濃厚なる同情は、以て宗教の一部分と名づく可からざるか。人類の為に沈痛なる批判を下して反省を促がすは、以て宗教の一部分と名く可からざるか。トラゼヂーも以て宗教たるを得べく、コメデーも以て宗教たるを得べし。然れども誤解すること勿《なか》れ、吾人は彼の無暗
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