我が前を過ぎぬ。暫らくして其形影を見失ひぬ。彼は無言にして来り、無言にして去れり。然はあれども彼の無言こそは、我に対して絶高の雄弁なりしなれ。知る人は知らむ、桃青翁松島に遊びて句を成さずして西帰せしを。而して我を蓋《おほ》ひし暗《やみ》の幕は、我をして明らかに桃青翁を見るの便を与へたり。
 怪しくも余は松島を冥想するの念よりも、一句を成さず西帰せし蕉翁の無言を読むの楽みに耽《ふけ》りたり。古《いにし》へより名山名水は詩客文士の至宝なり、生命なり。然れども造化の秘蔵なる名山名水は往々にして、韻高からず調備はらざる文士の為めに其粋美を失却する事あるを免かれず。
 飄遊《へういう》は吾《わが》性なり。飄遊せざれば吾性は完からざるが如き感あり。天地粋あり、山水美あり、造化之を包みて景勝の地に於て其一端を露はすなり。詩性ある者が景勝の地に来りて、神《しん》動き気躍るは至当の理なり、然れども景勝の地に僅《わづか》に造化が包裡する粋美の一端なる事を知《しら》ば、景勝其自身に対する観念は甚だ大《おほい》ならずして、景勝を通じ風光を貫いて造化の秘蔵に進み、其粋美を領得するは豈《あに》詩人の職にあらずや。
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