如何にして造化の秘蔵に進み、粋美を縦《ほしいまゝ》にすることを得む、如何にして俗韻を脱し、高邁なる逸興を楽むを得む。請ふ、共に無言なる蕉翁に聴《きか》む。
「美」は遂に説明し尽す能はざる者なり。「美」は肉眼の軽佻《けいてう》なる判断によりて凡人に誤解せらるゝと同じく、雄大なる詩人哲学者をも眩惑しつゝある者なり。至妙なる絵画、能く人を妖魅《えうみ》す、然《さ》れども絵画の妙工も一種の妖魅力に過ぎざるを奈何せむ。吾人真如を捕捉すと思ふ時に、真如の燦然《さんぜん》たる光は真如を惑はし去る。「美」を観るの眼も亦《ま》た斯《かく》の如し、正面に立つて「美」を観る事は雲のかゝりたる時の外はかなはず。迷宮の中《うち》にあつて「美」の所在を争ひ、右に走り左に馳せ、東に疲れ西に憊《つか》るゝ者、比々《ひゝ》皆な是なり。韻士は力を籠めて韻致を探り、哲学者は思ひを凝《こ》らして析解を試むるも、迷宮の迷宮たるは始めより今に至るまで大に変るところはあらざらむ。
 然《しか》れども迷宮と知つて迷宮に入るは文士の楽しむところにして、迷宮に入る事能はざるは文士の悲しむ所なり。古へより文士の勝景を探る者未だ迷宮に入らざるに、未だ妖魅を受けざるに、未だ造化の秘蔵に近《ちかづ》かざるに、先づ筆管を握つて秀句を吐かんとする者多し。造化に対して礼を失ふ者と云ふべし。彼等は彫琢《てうたく》したる巧句を得べし、然れども妖魅せられざる前の巧句は人工なり、安《いづく》んぞ神霊に動かされたる天工の奇句を咏出する事を得んや。ひとり探景の詩文のみに就きて云ふにあらず、凡《すべ》ての文章が神《しん》に入ると神に入らざるとは、即ち此|境《さかひ》にあり。古来の大作名著が神に入れるは、孰《いづ》れ神霊に動かさるゝを待ちて筆を握らざる者のあるべき。一たび妖魅せらるゝは、蓋し後に澄清なる識別を得るの始めなるべけれ。
 勝景は多少のインスピレイシヨンを何人《なんぴと》にも与ふる者なり。故に勝景は如何なる田夫《でんぷ》野郎をも詩気《しふう》を帯びて逍遙する者とならしむるなり。然るに所謂《いはゆる》詩客なる者多くは、勝景を以て詩を成さゞる可らざる所と思ふ。勝景をして自然に詩を作らしめず、自《みづか》ら強ひて詩を造らんとす。こは実に設題して歌を造る歌人の悪風と共に日東の陋習なり。彼等をして造詩家たらしむるも、詩人たらしめざるもの茲《こゝ》に存す。彼等をして作調家たらしむるも、入神《じゆしん》詩家《しか》たらしめざる者、茲に存す。而して此事ひとり景勝を咏ずる詩人に限るにあらず、人間の運命を極めんとする近代の意味に於いての文学家が、筆に役せられて文の神《しん》を失ふも、皆此理に外ならず。試に思へ、当年蕉翁の俳句を作らざる可らざるは、今日の文人が文章を捏造《ねつざう》せざる可らざるよりも甚しかりしを。況《いは》んや扶桑第一の好風に遊びて、一句を作《な》さずして帰りし事、如何許《いかばかり》の恥辱にてやありけむ。然るも、凡傭の作調家が為すこと能はざる所を蕉翁は為せり。蕉翁が余の前にひろがれる一巻の書《ふみ》なること、是を以てなり。
 われ常に謂《い》へらく、絶大の景色は文字を殺す者なりと。然るにわれ新《あらた》に悟るところあり、即ち絶大の景色は独り文字を殺すのみにあらずして、「我」をも没了する者なる事なり。絶大の景色《けいしよく》に対する時に詞句全く尽《つく》るは、即ち「我《われ》」の全部既に没了し去《さら》れ、恍惚としてわが此にあるか、彼にあるかを知らずなり行くなり。彼は我を偸《ぬす》み去るなり、否、我は彼に随ひ行くなり。玄々不識の中《うち》にわれは「我」を失ふなり。而して我も凡《すべ》ての物も一に帰し、広大なる一が凡てを占領す。無差別となり、虚無となり、糢糊《もこ》として踪跡《そうせき》すべからざる者となるなり。澹乎《たんこ》たり、廖廓《れうくわく》たり。広大なる一は不繋の舟の如し、誰れか能く控縛《こうばく》する事を得んや。こゝに至れば詩歌なく、景色なく、何《いづれ》を我《われ》、何を彼と見分る術《すべ》なきなり、之を冥交と曰ひ、契合とも号《なづく》るなれ。
 冥交契合の長短は、霊韻を享《う》くるの多少なり。霊韻を享くるの多少は、後に産出すべき詩歌の霊不霊なり。冥交契合の長き時は、自《おのづか》ら山川草木の中《うち》に己れと同様の生命を認め来つて、一条の万有的精神を遠暢《ゑんちやう》し、唯一の裡《うち》に円成せる真美を認め、われ彼れが一部分か、彼れわれが一部分か、と疑ふ迄に風光の中《うち》に己れを箝入《かんにふ》し得るなり。この時に当つて句を求むるも得べからず。作調家《タイミスト》は遠く離れたり。詩人は斯《かゝ》る境界にあつて、句なきを甘んずべし。蕉翁が松島に遊びて句なかりしは、果して余が読むところの如
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