思想の聖殿
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暗濛《あんもう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|是《ヱー》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1−94−31]
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 思想の領地は栄光ある天門より暗濛《あんもう》たる深谷に広がれり。羽衣を着けたる仙女も此領地の中に舞ひ、悪火を吐く毒鬼も此の裡に棲《す》めり。思想の境地は実に天の与へたる自由意志の※[#「鬥<((卯/亞の下半分)+斤)」、第3水準1−94−31]塲《とうぢやう》なり。美は醜と闘ひ、善は悪と争ふ、或は桂冠を戴きて此の舞台より歴史の或一隅に遷《うつ》り去るあり、或は傷痍を負ふて永く苦痛の声を留むるあり。甲去れば乙来り、乙去れば丙又た来る。一往一来、頻又頻を極めて、而して宇宙は悠然として更に他の新客を待てり。プレトー去つて遠し、シヱーキスピーア去つて又た還《かへ》らず、ウオーヅオルス逝《ゆ》けり、カアライル逝けり、ボルテーア逝き、バイロン逝けり。歴史の頁数は年毎に其厚さを加ふれど、思想界の領地は聊爾《いさゝか》も減毀《げんき》せらるゝを見ず。恰《あたか》も是れ渡船に乗じて往来する人の面は常に異なれど、渡頭、船を呼ぶの声は尽くる時なきが如し。
 日本をして明治あらしめたるも思想の力多ければなり。「明治」をして、過去の幾星霜の如く蜉蝣的《ふいうてき》の生涯を為さしめたるもの、抑《そもそ》も亦た思想の空乏に因するところ寡《すくな》しとせんや。思想は駭風《がいふう》の如く、以て瓦石を飛ばすべし、思想は滋雨の如く、以て山野を潤ほすべし。国を建て家を興すもの渠《かれ》なり、深く人心の奥を支配するものも渠なり。人間霊魂の第一の顧問は渠なり、渠の動くところに霊魂の自由なる運作《うんさ》あり。渠は人間の最上府を鎮護するの任を有せり。渠は斯の如く人間の最上府を囲繞《ゐねう》して、而して人間の結托せる社会を鎮護せり。社会と名づけ、国家と呼ぶも、要するに個々人間の最上府が、自由の意志を以て相結托せる衆合躰に過ぎざるなり。帰着する所は一個の最上府なり、爰《こゝ》に総《すべ》ての運命を形成せり、爰に総ての過去と、総ての
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