或は猖狂《しやうきやう》、或は枯寂、猖狂は猖狂の苦味あり、枯寂は枯寂の悲蓼《ひれう》あり、魚躍り鳶舞ふを見れば聊《いさゝ》か心を無心の境に駆ることを得、雨そぼち風吹きさそふにあひては、忽《たちま》ち現身《げんしん》の心に還る、自然は我を弄するに似て弄せざるを感得すれば、虚も無く実もなし。
其五
世にありがたき至宝は涙なるべし。涙なくては情《じやう》もなかるらむ。涙なくては誠もなかるらむ。狂ひに狂ひしバイロンには涙も細繩ほどの役にも立ざりしなるべけれど、世間おほかたのものを繋ぎ止むるはこの宝なるべし。遠く行く情人の足を蹈み止《とゞ》まらすもの、猛く勇む雄士《ますらを》の心を弱くするもの、情|差《たが》ひ歓《よろこび》薄らぎたる間柄を緊《し》め固うするもの、涙の外《ほか》には求めがたし。人世涙あるは原頭に水あるが如し。世間もし涙を神聖に守るの技《わざ》に長《た》けたる人を挙げて主宰とすることあらば、甚《いた》く悲しきことは跡を絶つに幾《ちか》からんか。
其六
「※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]《あら》く斫《き》られたる石にも神の定めたる運あり。」とは沙翁の悟道なり。静かに物象を観ずれば、物として定運なきにあらず。誰か恨むべき神を知りそめたる。誰か喞《かこ》つべき仏《ぶつ》を識りそめたる。心を物外に抽《ぬ》かんとするは未だし、物外、物内、何すれぞ悟達の別を画かむ。運命に黙従し、神意に一任して、始めて真悟の域に達せんか。
其七
孤雲野鶴を見て別天地に逍遙するは詩人の至快なり。然《しか》れども苦海塵境を脱離して一身を挺出せんとするは、人間の道にあらず。苦海塵境に清涼の気を輸《はこ》び入るゝにあらざれば、詩人は一の天職を帯びざる放蕩漢にして終らんのみ。
其八
他《ひと》を議せんとする時、尤も多く己れの非を悟る。頃者《ちかごろ》、激する所ありて、生来甚だ好まざる駁撃の文を草す。草し終りて静に内省するに、人を難ずるの筆は同じく己れを難ぜんとするに似たり。是非曲直|軽《かろ/″\》しく判《はん》し難し。如《し》かず、修練鍛磨して叨《みだ》りに他人の非を測らざることをつとむるに。
其九
大なる「悔改《くいあらため》」は、又た一個の大信仰なり。罪の罪たるを知らざるより大なる罪はなし、とはカーラ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング