し、出《いづ》るに車あり、入るに家あり、衣食亦た自ら適するに足るものあり、旅するに費《ついえ》あり、病むときに医あり、何不自由もなく世を渡り、而して又た日暮れ途《みち》尽《つ》くるに及びては年金なるものありて以て晩年を閑遊するに足る。然るに他の職業にては、辛ふじて自《みづか》ら給するに足るものあるのみ、而して適《たまた》ま病魔に犯さるゝ事あらば、誰ありて之を看護するものもなし。斯の如きものは即ちイスラヱルの子孫が埃及《エジプト》にありてなしたる主に対するつとめなり、この事に就きては吾人之を出埃及記《しゆつエジプトき》に録《しる》さるゝを読めり。彼等は実に奴隷の悲境に沈みて、殆ど堪ふべからざる程の過度の労力を負はせられたるなり。罪の奴隷なるものあり、蓋《けだ》しイスラヱル人の埃及にありて受けたる苦痛に過ぐるものは、この罪の奴隷なるべし、羅馬書《ロマしよ》六章二十三節に曰く、「罪の価は死なり」と。
 イスラヱルの子供等が斯《こ》の悲境に沈淪してありし時、神はモーセを遣はして彼等を囚禁より放ちて、カナンの陸に至らしめたり。これと同じく我等が罪の奴隷となりて悲しむべき境遇に陥る時に、神は其の独子《ひとりご》イエス・キリストを遣はして我等を罪の囚禁より救ひ出して、永生《かぎりなきいのち》をもつべきこのつとめに導きたまふなり。「また受造者《つくられしもの》みづから敗壊《やぶれ》の奴《しもべ》たることを脱れ神の諸子《こたち》の栄《さかえ》なる自由に入《いら》んことを許《ゆるさ》れんとの望を有《たもた》されたり」(羅馬書第八章二十一節)とあるは即ち是《これ》なり。職司《つとめ》の種類の中《うち》には、主につけるものにあらずして、その表面は極めて格好に且つ怡楽《たのし》きものなるに似たれど、終りには、死を意味するものあり。険を冒し奇を競ふ世の中《なか》には、利益と名誉とを修《をさ》むるの途甚だ多し、而して尤も利益あり、尤も成功ありと見ゆるものは人を害し人を傷《そこな》ふ的《てき》の物品の製造なり。斯《かく》の如く一時の利益の為に労役する人々は遂には、肉と、霊とを合せて之を死に付すものと言はざる可からず。
 彼等は実に彼等自身を賈《こ》に売り付すものなり、その最後に得るところは悉《こと/″\》く空なり、ひとり空なるのみならず、罪の重荷あり、罪の終なる死あり、豈に悲まざるべけんや。
 主
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