、栄達の中《うち》にも苦悩あるを、敗滅の中にも希望あるを。栄達必らずしも勝つにあらず、敗滅必らずしも敗るゝにあらず、王侯の第宅必らずしも福神を宿すところなるにあらず、茅舎の中、寒燈の下、至大なる清栄を感謝するものもあるなり。今日[#「今日」に白丸傍点]のみ凡《すべ》ての問題の立論点ならば知らず、昨日を知り、又た明日を知るを得ば、勝敗が今日の貧富貴賤を以て断ず可からざる事は明白ならむ。
 社界経済の外に吾人を経綸する者あり、吾人は分業の結果を以て甘心する事能はざるの性を有す、吾人は遂に希望を以て生命とするの外あらざるなり。今日[#「今日」に白丸傍点]は吾人の永久にあらず。今日[#「今日」に白丸傍点]は吾人の明日にあらず、言《ことば》を換へて解けば、吾人は今日の為に生きず、明日の為に生くるなり、明日は即ち永遠の始めにして、明日といへる希望は即ち永遠の希望なり。希望は吾人に囁《さゝや》きて曰ふ、世は如何《いか》に不調子なりとも、世は如何に不公平、不平等なりとも、世は如何に戦争の娑婆《しやば》なりとも、別に一貫せるコンシステント(調実)なる者あり。人生のいかに紛糾《ふんきう》せるにも拘《かゝは》らず、金星は飛んで地球の上に堕ちざるなり、彗星は駆けつて太陽の光りを争はざるなり。大宇宙に純一なるコンシステンシイあるは、流星の時に地上に乱堕するを以て疑ふに足らざるなり。江海の水溢れて天に注ぐ事なく、泰山の土長く地上に住《とゞ》まることを知らば、地上にも亦《ま》たコンシステンシイの争ふ可からざる者あるを悟らざらめや。何をか調実の物と言ふ、マホメット説けり、釈氏説けり、真如と呼び、真理と称へ、東西の哲学者が説明を試みて止《やま》ざる者即ち是《これ》なり。而して吾人は之を基督といふ。基督にありて吾人は調実を求め、基督にありて吾人は宇宙の経綸を知る。ナザレのイヱスは真理を説きたるにあらず、真理にして真理を発顕したる者なり。
 基督の経綸には社界分業の法則あらざるなり。社界経済は人間の労苦より起りて、弥縫《びほう》の策に過ぎず、彼と此とを或仮説の法則の下に、定限ある時間の間撞突なからしむるのみ。経済上の問題として世を経営するは寸時の方策のみ。基督の経綸は永遠なり。未来あらず、現在あらず、過去あらざるなり。凡ての未来、凡ての現在、凡ての過去は彼に於て一時のみ。もし天地間、調実《コンシステント
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