国民と思想
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)詳《つまび》らかに

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百花|妍《けん》を競ふ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](明治二十六年七月)

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)つら/\今の思想界を見廻せば、
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     (1)[#「(1)」は縦中横] 思想上の三勢力

 一国民の心性上の活動を支配する者三あり、曰く過去の勢力、曰く創造的勢力、曰く交通の勢力。
 今日の我国民が思想上に於ける地位を詳《つまび》らかにせんとせば、少なくとも右の三勢力に訴へ、而して後明らかに、其関係を察せざる可からず。
「過去」は無言なれども、能《よ》く「現在」の上に号令の権を握れり。歴史は意味なきペーヂの堆積にあらず、幾百世の国民は其が上に心血を印して去れり、骨は朽つべし、肉は爛《くさ》るべし、然れども人間の心血が捺印《なついん》したる跡は、之を抹すべからず。秋果熟すれば即ち落つ、落つるは偶然にして偶然にあらず、春日光暖かにして、百花|妍《けん》を競ふ、之も亦偶然にあらず、自然は意味なきに似て大なる意味を有せり、一国民の消長窮通を言ふ時に於て、吾人は深く此理を感ぜずんばあらず。引力によりて相《あひ》繋纏《けいてん》する物質の力、自由を以て独自|卓犖《たくらく》たる精神の力、この二者が相率ひ、相争ひ、相呼び、相結びて、幾千幾百年の間、一の因より一の果に、一の果より他の因に、転々化し来りたる跡、豈《あ》に一朝一夕に動かし去るべけんや。
 然れ共「過去」は常に死に行く者なり。而して「現在」は恒《つね》に生き来るものなり。「過去」は運命之を抱きて幽暗なる無明に投じ、「現在」は暫らく紅顔の少年となりて、希望の袂《たもと》に縋《すが》る。一は死《しに》て、一は生く、この生々死々の際、一国民は時代の車に乗りて不尽不絶の長途を輪転す。
 何《いづ》れの時代にも、思想の競争あり。「過去」は現在と戦ひ、古代は近世と争ふ、老いたる者は古《いにしへ》を慕ひ、少《わか》きものは今を喜ぶ。思想の世界は限りなき四本柱なり。梅ヶ谷も爰《こゝ》にて其運命を終りたり、境川《さかひがは》も爰にて其運命を定めたり、凡《およ》そ爰に登り来るも
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