世の傾向は吾人の知り得る所にあらず、然れども沙翁劇と称する一派及之と同性質の古劇の外は、漸く写実的精巧の極点にまで進まんとしつゝある由は、微《ほのか》に聞得たる事実なり。塲景を以て俗客の視覚を幻惑するは、射利を旨とする劇塲の常なれば、深く咎《とが》むべきにあらず。頃者《このごろ》、我劇(別して菊五郎一派)が新らしき趣向を凝《こ》らして客を引かんことに切なるは、元より其の当なり。然れども暫らく塲景の精不精とを外にして、その塲景と演者との関係を察する時、吾人は屡《しばし》ば我が塲景の、余りに演者の動作に対する不自由を与ふるを認むるなり。人物を活動せしむるにあらず、事件を顕著ならしむるが我劇の精神なるが故に、舞台の精巧《プレサイスネツス》は適《たまた》ま以て劇中の人物の生活の実態を描き出るには好けれど、其の幻惑力は自《おのづ》から観者の心魂を奪ひて摸型的美術の中に入らしめ、且は又た演者自らをして、余りに多く写実的動作に気を配らしむるの結果、遂に作者の筆を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]束するの禍を生ずるに至るべし。作者之が為に踟※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]《ち
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