物をして整合の奴隷とならしむるを非とするに過ぎざるのみ。整合多種多様のものに求むるは、不整合の原因なり。鳴物としての鳴物、即ち一塲の始め終り、若《もし》くは押韻的要句[#「押韻的要句」に傍点]等に際してのみ之を用ふる鳴物ならば、如何に複雑なりとも此は論外なれば妨げなし、唯だ舞台にありて活動する演者の技[#「技」に傍点]の上に大なる操縦の力を捉れるが如き今の鳴物の有様は、之を整合の弊と言はざるを得ざるなり。
 楽[#「楽」に傍点]と動《アクシヨン》とは、到底整合を求むべきものにあらず。強《し》いて之を求むれば、劇を変じて舞蹈となすべきのみ。我劇は往々にして、此弊に陥れり。楽《がく》と動とを整合せしむるが為に、演者の自然的動作を損傷して、緩急を楽《がく》に待つの余義なきを致さしむ。楽の多様は是非なし、ピアノを用ふることも風琴を用ふることも、我劇の古色を傷《きずつ》くる限りは出来ぬ相談なるが故に、我邦の楽にて推し通すは可也、然れども願くは、楽と動との関係を最少《もすこ》し緩《ゆ》るくして、演者の活溌なる動作を見ることを得たきものなり。
 吾人は我劇の塲景《シインリー》にも同じ弊を見る。欧洲近
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