技倆を示めすべき為に備へられたる舞蹈の機会あり。其の劇の演ずるところ悲劇にもあれ、喜劇にもあれ、斯かる機会に到着する時には、演者も観客も劇の本色を忘れて、宛然たる活動的絵画の中に没入して、人[#「人」に傍点]もなく、事[#「事」に傍点]もなく、暫らく之に幻惑せられざるを得ざるが常なり。
 余は舞蹈に就いて多く知るものにあらず。然れども我劇にて行はるゝ舞蹈は、断じて劇的のものにあらずと言ふを憚《はゞか》らず。之を美術の他の部門に分つ上は一種の特技なるべし。劇の中に存して劇と与《とも》に、進歩せしむるは到底、望むべき事にはあらず。真の性質よりするも、美術としての舞蹈は、寧ろ喜劇に限りて或度に於て有用とするを得べきも、悲劇には破壊こそすれ、一の用をなすべきを認めず。悲劇は総じて荘重なる調子を要する者なり、因と果との照応、尤も緊切なるを要する者なり、冗漫なる舞蹈は悲劇に対する風情を損することあるも、之を増すことはあらじ。劇詩の前途に於て悲劇と喜劇と分明に相別るゝ事あらば、舞蹈は一の問題となるべし。家流の舞蹈は概《おほむ》ね所作《しよさ》にて之を見る者なれば、爰に言はず、所謂足取[#「足取」に傍
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