。団洲の目玉は有名なり、然れども彼の目玉も亦た一種の整合術に過ぎざるなり。柝木《ひやうしぎ》の響と彼の目玉と相聯関して三階の喝采を博する時、吾人は何等の妙味をも感ぜざるなり。
我邦の台詞《せりふ》に一種の特質あるは、疑ふべからざるところなり。而して其由来する所は、浄瑠璃《じやうるり》の朗誦法に帰すべく、且《かつ》は又た我邦言語の母韻に終る事情にも帰すべしと雖、職《しよく》として整合の、余りに厳格なるに因せずとせんや。緩漫《くわんまん》にして長たらしきのみならば責むるにも及ぶまじきが、抑揚の余りに規則立ちたる、短急の其の自然を失ひたるなど、抑《そもそ》も整合を以て唯一の中心とする我劇の弊とせずして何ぞや。
蓋《けだ》し我劇の舞蹈ほど、劇としての美術をなせるはあらざるべし。吾人は他邦の劇に通ずる者にあらず、然れども吾人の臆測する所を以てすれば、我邦の劇的舞蹈は世界に其比を見ざるところならんか。而して其の由つて来る所を察すれば、我劇の整合を尊ぶの精神に伴へるものなることを知るに難からず。啻《たゞ》に舞蹈としての舞蹈、即ち各家々流の舞蹈に止まらず、一の白と共に一の半舞蹈あり、又た特に演者の
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