客居偶録
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)素《も》と虚弱
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)都門|熱閙《ねつたう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)促々《そく/\》として
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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其一 旅心
暫らく都門|熱閙《ねつたう》の地を離れて、身を閑寂たる漁村に投ず。これ風流|韻事《ゐんじ》の旅にあらず。自から素性を養ひて、心神の快を取らんとてなり。わが生、素《も》と虚弱、加ふるに少歳、生を軽うして身を傷《やぶ》りてより、功名念絶えて唯だ好む所に従ふを事とす。不幸にして籍を文園に投じ、猜忌《さいき》の境に身を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]めり。斯の如きは素願にあらず、希《ねがは》くは名もなく誉もなき村人の中に交りて、わが「真村」をその幽囚より救はんか。
其二 夏休
天の炎暑を司《つかさど》る、必らずしも人を苦しむるのみにあらず。居常唯だ書籍に埋もれ、味なき哲理に身を呑まれて、徒《いたづ》らに遠路に喘《あへ》ぐものをして、忽焉《こつえん》、造化の秘蔵の巻に向ひ不可思議の妙理を豁破《くわつぱ》せしむるもの、夏の休息あればなり。学校より帰る人は、久しく疎遠なりし父兄の情を温め、官省の職務より離るゝものは、家を携へて適好の閑を消す、斯くの如きは夏の恩恵なり。ひとり文界の浪士のみ之を占むるにあらず、無名の詩人、無文の歌客、こゝやかしこにさまよふめり。
其三 村家
わが来り投ぜしところは、都門を離るゝ事遠からずと雖《いへども》、又た以て幽栖《いうせい》の情を語るに足るべし。これ唯だ海辺の一漁村、人烟稀にして家少なく、数屋の茅檐《ばうえん》、燕来往し、一匹の小犬全里を護る。濤声松林を洩れて襲ひ、海風清砂を渡つて来る。童子の背は渋を引きたる紙の如く黒く、少娘の嬌は半躰を裸《あ》らわして外出するによりて損せず。雄鶏昼鳴いて村叟の眠を覚さず、野雀軒に戯れて児童の之を追ふものなし。前家に碓舂《たいしよう》の音を聴き、後屋に捉績《そくせき》の響を聞く。人朴にして笑語高く、食足りて歓楽多し。都城繁労の人を羨《うらや》む勿《なか》れ、人間|縦心《しようしん》の境は爾《なんぢ》にあり。
其四 暁起
一鴉鳴き過ぎて、何心ぞ、我を攪破《かうは》する。忽《たちま》ち悟る人間十年の事、都《す》べて非なるを。指を屈すれば友輩幾個白骨に化し、壮歳久しく停まらざらんとす。逝《ゆ》く者は逐ふ可からず。来る者は未だ頼み難し。友を憶へば零落の人、親を思へば遠境にあり。寝を出て襟を正して端然として坐す。この身功名の為に生れず、又た濃情の為に生れず、筆硯を顧みて暫らく撫然たり。
其五 乞食
天の人に対する何ぞ厚薄あらん。富めるもの驕《おご》る可からず、貧しきもの何ぞ自ら愧《は》づるを須《もち》ひん。額上の汗は天与の黄金、一粒の米は之れ一粒の玉、何ぞ金殿玉楼の人を羨まむ。唯だ憫《あは》れむべきは食を乞ふの人。天の彼を罰するか、彼の自ら罰するか、韓郎の古事、世に期し難く、靖節《せいせつ》の幽意、人の悟ることなし。
夕陽西に傾いて戸々の炊烟《すゐえん》漸く上るの時、一群の村童、奇異の旅客を纏《まと》ふて来る。只だ見る粗造の木車一輛、之を挽《ひ》くものは五十に余れる老爺、之に乗るものは、十歳ばかりも他に増さるべし、乗るものは小鼓を打つて題目を誦し、挽くものは家に就いて喜捨を仰ぐ。髪は霜に打たれし蓬《よもぎ》の如く、衣は垢に塗《まみ》れて臭気高し。われは爾時、晩食を喫了して戸外に出で、涼を納《い》れて散策す。此の躰を見て惆悵《ちうちやう》として去る能はず、熟視すれば乗者の衣は三紋の、あはれ昔時を忍ぶ会津武士、脚は破衣を脱して露《あら》はるゝところ銃創を印し、眼は空しく開けども明を見ず。側目して両者を視れば、むかしながらの義は堅く、主の車を推して主の食を乞ひ、はる/″\と西国の霊塲に詣づるものと覚えたり。吁《あゝ》、当年豪雄の戦士、官軍を悩まし奥州の気運を支へたりし快男子、今は即ち落魄《らくはく》して主従唯だ二個、異境に彷徨《はうくわう》して漁童の嘲罵に遭《あ》ふ。然も主は僕を捨てず、僕は主を離れず、木車一輛、山海を越えて百里の外に旅す。讃《ほ》むべきかな会津武士、この気節を以て而して斯の如し、深く人間を学ぶに堪えたり。蝉羽子《せんう
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