各人心宮内の秘宮
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)自《みづか》ら
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)幾百万|里程《りてい》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)渺々《べう/\》たる
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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各人は自《みづか》ら己れの生涯を説明せんとて、行為言動を示すものなり、而《しか》して今日に至るまで真に自己を説明し得たるもの、果して幾個かある。或は自己を隠慝《いんとく》し、或は自己を吹聴し、又た自らを誇示するものあれば、自らを退譲するものあり、要するに真に自己の生涯を説明するものは尠《すく》なきなり。
哲学あり、科学あり、人生を研究せんと企つる事久し、客観的詩人あり、主観的詩人あり、千里の天眼鏡を懸《かけ》て人生を観測すること既に久し、而して哲学を以て、科学を以て、詩人の霊眼を以て、終《つひ》に説明し尽すべからざるものは夫《そ》れ人生なるかな。
厭世大詩人バイロンが「我は哲学にも科学にも奥玄なるところまで進みしが、遂に益するところあらざりし」と放言し、万古の大戯曲家シヱーキスピーアが「世には哲学を以ても科学を以ても覗《うかゞ》ひ見るべからざるものあり」と言ひたりしも、又た学問復興の大思想家と人の言ふなるベーコンが「哲学遂に際涯《さいがい》するところあらざるべし」と戯れたるも、畢竟《ひつきやう》するに甚深甚幽なる人間の生涯をいかんともすべからざるが為めならんかし。
人生はまことに説明し得べからざるものなるか。好し左《さ》らば、人生は暗黒なる雲霧の中に埋却すべきものとせんか。何物とは知らず吾人の中に、斯《か》くするを否むものあるに似たり。
人の本性を善なりと認めたる支那の哲学者も、人の本性を悪と認めたる同じ国の哲学者も、世界を楽天地と思ひ定めしライプニッツも、世界を苦娑婆と唱へたるシヨツペンホウヱルも、或は善の一側を観じ、或は悪の一側を察し、或は楽境を睥目《へいもく》し、或は苦界を睨視《げいし》したるものにして、是等大思想家の知り得たるところまでは確実なれども、なほ知り得べからざる不可覚界のひろさは、幾百万|里程《りてい》なるべきか。真理は実に多側なり。神の面《おもて》は一《ひとつ》なれど、之を見るものゝ眼によりていかやうにも見ゆるものなるべけれ。深山に分け入りて蹈み迷ふは不案内の旅客なり、然れども其出で来る時には、必らず深山の一部分を識得して之を人にも語り、自らも悟るなり、真理を尋究する思想家の為すところ、亦た斯《かく》の如くなるべけん。
深山に蹈入る旅客なかるべからざるが如くに、真理に蹈迷ふ思想家もなかるべからず。人間は暗黒を好む動物にはあらざるなり、常久不滅の霊は其故郷を思慕して、或時に於て之に到着せん事を必するものにてあればこそ、今日に到るまで或は迷信に陥り、或は光明界に出で、宗教の形《かた》、哲学の式、千態万様の変遷を経たるなり。人性に具備せる恋愛の如き、同情の如き、慈憐の如き、別して涙の如きもの、深く其至粋を窮《きは》めたるものをして造化の妙微に驚歎せしめざるはなし。蛮野《ばんや》より文化に進みたるは左までの事にあらず、この至妙なる霊能霊神を以て遂には獣性を離れて、高尚なる真善美の理想境に進み入ること、豈《あに》望みなしとせんや。
欧洲の理想界に形而上派の興《おこ》りてより、漸くにして古代の崇高なるプラトニックの理想的精神を復活せしめ、爾来《じらい》欧洲の宗教界、詩文界に生気の活動し来りたるを見る。律法儀式にのみ拘泥《こうでい》したる羅馬《ローマ》教の胎内よりプロテスタニズム生れ出で、プロテスタニズムよりピユリタニズム生じ、ピユリタニズムによりて、長く人心を苦しめたる君主専制の陋弊《ろうへい》を破りたる自由の思想の威霊あるものを奮興したり。或は一転して旧来の迷夢を攪破したるボルテイアとなり、バイロンとなり、ゴヱテとなり、カアライルとなり、自由神学派となり、唯心的傾向となりて、今日に至るまでの思想界の変遷はおもしろきこと限りなし。
然れども凡《すべ》て是等の変遷を貫ぬける一条の絃の存するあるは、識者の普《あま》ねく認むるところなり。之を何とか為す、曰く、皮想的信仰破れて、心を以て基礎とする思想及び信仰の漸く地平線上に立ち上りて、曙光|炳灼《へいしやく》たるものある事是れなり。凡ての批評眼を抉《くじ》り去りて後に聖経《せいけい》を解《と》かむとするは、むかし羅馬教の積弊たりしものを受けて今日の浅薄なる聖経の読者が為すところなり、心を以て基礎とし、心を以て明鏡とし、心を以て判断者となし、以て聖経に教ゆるところを行はんとするは、最近の思想を奉じ自由の意志に従ひて信仰を形《かたちづ》くるものなりけり。
人世は遂に説明し得べからざるものなり、然らば人生を指導するものも亦《ま》た、遂に解釈し尽くす能はざる程の宝蔵にあらざれば、可なるところを知る能はず。数間の地を測るには尺度にて足るべし、天下の大を度《はか》るには、人造の尺度果して何の用をかせむ。もし聖経の教ゆるところ、単に消極的の殺快楽(或は克己)に止《とゞ》まらば、聖経も亦た古来幾多の思想界の階段の一となるの歴史上の価値を得るのみにして、止《や》まんのみ。
或は利得の故に教会に結び、或は逆遇に苦しみて教理に帰依《きえ》す、是《かく》の如きは今日の教会にめづらしからぬ実状なり。もし夫れ人間の本性が全く教理を認めたるものならば、或は利得を取り或は帰依をなす元より自由にてあれど、苟《いやし》くも其発心の一瞬間に卑劣なる慾情の混り居らば、其教会の汚濁、実に思ふべきなり。然れども基督《キリスト》の本旨は善人を救ふにあらず、不善を善に回《か》へすにあれば、われは始めに染汚《せんを》の慾情を以て入り来りしものも、後《のち》には極めて浄潔なる聖念に満たさるゝ様にならん事を願ふなり。
バプテスマのヨハネは基督の為に道を備へんとて遣はされたり。道を備ふるとは何ぞ。曰く、人々を悔改《くいあらため》に導くなり。悔改とは何ぞ。曰く、不善に向ひたる霊性を善に向はしむるなり。
不善の行為は適《たまた》ま不善の実象を現ずるに過《すぎ》ずして、心の上にあらはれたる一黒点に外ならず。不善の行為を廃めて善の行為をなすも亦た、心の上にうつりたる一白点に外ならず。共に心の上にあらはるゝものにして、心ありて後に善もあり不善もあり、心なければ何を悔改むるところとせむ。
心こそ凡てのものを涵する止水《しすゐ》なれ。迷ふも茲《こゝ》にあり、悟るも茲にあり、殺するも仁するも茲にあり、愛も非愛も茲にこそ湛《たゝ》ふるなれ。ヨハネの所謂《いはゆる》悔改とは、即ち心を直《なほ》くするにあり、ヨハネの所謂道を備ふるとは、即ち心を虚《むなし》うするにあり、心を虚うする後にあらざれば、真理は望む事を得べからざればなり。基督教に於て心を重んずる事|斯《かく》の如し。唯だ夫れ老荘の、心を以て太虚となし、この太虚こそ真理の形象なりと認むる如き、又は陽明派の良知良能、禅僧の心は宇宙の至粋にして心と真理と殆《ほとんど》一躰視するが如きは、基督教の心を備へたる後に真理を迎ふるものと同一視すべからず。
以上は「心」に就きて説きたるまでなり、いでわれは是よりわが感得したるところを述て、心宮内の秘殿を論ぜむ。
聖経はエルサレムの神殿を以て神の座《おは》すところとせり、其神殿に聖所あり、至聖所あり、至聖所には祭司の長《をさ》の外《ほか》之に入ることを得るもの甚だ稀なりと伝ふ。われ惟《おも》へらく、人の心も亦た斯くの如くなるにあらざるか。心に宮あり、宮の奥に更に他の宮あるにあらざるか。心は世の中《なか》にあり、而して心は世を包めり、心は人の中《なか》に存し、而して心は人を包めり。もし外形の生命を把《と》り来つて観ずれば、地球広しと雖《いへども》、五尺の躰躯大なりと雖、何すれぞ沙翁をして「天と地との間を蠕《は》ひまはる我は果していかなるものぞ」と大喝せしめむ。唯だ夫れこの心の世界|斯《かく》の如く広く、斯の如く大《おほい》に、森羅万象を包みて余すことなく、而してこの広大なる心が来り臨みて人間の中《うち》にある時に、渺々《べう/\》たる人間眼を以て説明し得べからざるものを世に存在せしむるなり。
吾人《われら》は堕《お》ちて世間にある事を記憶せざるべからず、出世間の出世間の事を行ふより、在世間の出世間の事を行ふの寧ろ大にして、真なる事を記憶せざるべからず。基督の教理も亦た茲に存す、彼は遁世を教へずして世にうち勝つことを教へたり、彼は世の大とするものを斥《しりぞ》けて小とし、世の小とするものを挙げて大とせり、彼は学者法律家等を責むるに偽善者の名を以てし、却《かへ》りて最も小額の義財を神に献ずるものを激賞したり、その斯く教へたるもの、要するに人間の中に存在する心は至大至重のものにして、俗眼大小の以て衡《かう》すべきにあらず、学問律法の以て度測すべきものにあらず、小善小仁の以て論ずべきにあらざるを示せしに外ならず。
小善小仁は滔々たる天下之を為すに難きもの多からず、大善大仁はいかなる人にして始めて行ふを得むか。
教会内にて、つまらぬ批評眼をもつて他の小悪小非を穿《うが》つものには、教会内の小善小仁すらも旌《あらは》し易からず、而して今日の教会の多数は斯くの如くなるを悲しむなり。夫れ小善小仁は、古へのパリサイ人|能《よ》く之を為せり、彼等は教会にて威厳を粧ひ、崇敬をあらはし、小悪小非行を慎しむ事、今の俗信仰にまさり、小善小仁を行ふ事、今の所謂基督教信者なるものに幾等《いくとう》か加ふるところありし、然るも基督は之を排して、蝮《まむし》の裔《すゑ》とまで罵《のゝし》りぬ。
宗教の本意、豈《あ》に狭穿《けふせん》なる行為の抑制にあらんや。われは、教会の義財箱にちやら/\と響きさして、振り向きて傲《ほこ》り顔《がほ》ある偽善家を悪《にく》むと共に、行為の抑制を重んじて心の広大なる世界を知らざるものをあはれむ事限りなし。何事ぞ、人間を遇するに鞭を用ひて、其行住坐動を制せんとするが如きは。宗教豈斯の如きものならんや。
心に宮あり、宮の奥に他の秘宮あり、その第一の宮には人の来り観る事を許せども、その秘宮には各人之に鑰《かぎ》して容易に人を近《ちかづ》かしめず、その第一の宮に於て人は其処世の道を講じ、其希望、其生命の表白をなせど、第二の秘宮は常に沈冥にして無言、蓋世《がいせい》の大詩人をも之に突入するを得せしめず。
今の世の真理を追求し、徳を修するものを見るに、第一の宮は常に開《あ》けて真理の威力を通ずれど、第二の宮は堅く閉ぢて、真理をして其門前に迷はしむるもの多し。第一の宮に入るの門は広けれども、第二の宮の門は極て狭し。第一の宮に入りたる真理は、未だ以て其人を生かしむるものにあらず、又た死せしむるものにあらず、喝《かつ》、第一の宮に善根を種《たねま》き懺悔《ざんげ》をなすは、凡人の能はざるところにあらず、この凡人豈に大遠に通ずる生命と希望とを、いかにともするものならんや。福音何物ぞ、救何物ぞ、更生何物ぞ、是等の物を軽侮し、玩弄し、徒《いたづ》らに説き、徒らに談じ、徒らに行ひ、徒らに思ひ、第一の門までは蹈入らしめて第二の門を堅く鎖すもの、比々皆是れなるにあらずや。尤も笑ふべきは、当今の宣教師輩が「福音」の字句に神力ありと信ずる事なり。彼等は漫《みだり》に言《げん》を為して曰く、「福音の説かるゝところ必らず救あり」と、而して彼等は福音を説かずして、其字句を説く、自ら基督を負ふと称して、基督の背後に隠るゝ悪魔を負ふ、咄《とつ》、福音を談ぜんとするもの、何ぞ天地至大の精気に対して、極めて真面目なる者とならずや。其第一の宮を開きて、第二の宮
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