たし》かに其一期を持ちしなり。その第一期に於ては我も有りと有らゆる自由を有《も》ち、行かんと欲するところに行き、住《とゞ》まらんと欲する所に住まりしなり。われはこの第一期と第二期との甚《はなは》だ相懸絶する者なる事を知る、即ち一は自由の世にして、他は牢囚の世なればなり、然れども斯《か》くも懸絶したるうつりゆきを我は識らざりしなり、我を囚《とら》へたるものゝ誰なりしやを知らざりしなり、今にして思へば夢と夢とが相接続する如く、我生涯の一期と二期とは※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]々《ぼう/\》たる中《うち》にうつりかはりたるなるべし。我は今この獄室にありて、想ひを現在に寄すること能はず、もし之を為すことあらば我は絶望の淵に臨める嬰児なり、然れども我は先きに在りし世を記憶するが故に希望あり、第一期といふ名称は面白からず、是を故郷と呼ばまし、然り故郷なり、我が想思の注ぐところ、我が希望の湧くところ、我が最後をかくるところ、この故郷こそ我に対して、我が今日の牢獄を厭はしむる者なれ、もしわれに故郷なかりせば、もしわれにこの想望なかりせば、我は此獄室をもて金殿玉楼と思ひ了《な》しつゝ、楽《たのし》き娑婆《しやば》世界と歓呼しつゝ、五十年の生涯、誠に安逸に過ぐるなるべし。
我は我天地を数尺の大さと看做《みな》すなり、然れども数尺と算するも人間の業《わざ》に外ならず、之を数万尺と算ふるも同じく人間の業なり、要するに天地の広狭は心の広狭にありて存するなり、然るに怪しくも我は天地を数尺の広さとして、己れが坐するところを牢獄と認む、然り牢獄なり、人間の形せる獄吏は来らずとも折々に見舞ひ来るもの、是れ一種の獄吏に外ならず、名誉是なり、権勢是なり、富貴是なり、栄達是なり、是等のもの、我に対する異様の獄吏にてあるなり。
彼等は我に対しては獄吏と見ゆれども、或一部の人には天使の如くにあるなり、彼等が人々を折檻《せつかん》する時に、人々は無上の快楽を感ずるなり、我眼《わがめ》曇れるか、彼等の眼|盲《し》ひたる乎《か》、之を断ずる者は誰ぞ。
デンマルクの狂公子を通じて沙翁《さをう》の歌ひたる如くに、我は天と地との間を蠕《は》ひめぐる一痴漢なり、崇重《そうちよう》なる儀容をなし、威厳ある容貌を備へ、能《よ》く談じ、能く解し、能く泣き、能く笑ふも、人
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