いくよ》にも亘る可《べき》実存の如くに感じ、今迄は縁遠かりし社界は急に間近に迫り来り、今迄は深く念頭に掛けざりし儀式も義務も急速に推《お》しかけ来り、俄然其境界を代へしめて、無形より有形に入らしめ、無頓着より細心に移らしめ、社界組織の網繩《まうじよう》に繋がれて不規則規則にはまり、換言すれば想世界より実世界の擒《とりこ》となり、想世界の不覊《ふき》を失ふて実世界の束縛となる、風流家の語を以て之を一言すれば婚姻は人を俗化し了する者なり。然れども俗化するは人をして正常の位地に立たしむる所以《ゆゑん》にして、上帝に対する義務も、人間に対する義務も、古《いにし》へ人《びと》が爛※[#「火+曼」、第4水準2−80−1]たる花に譬《たと》へたる徳義も、人の正当なる地位に立つよりして始めて生ずる者なる可けれ、故に婚姻の人を俗化するは人を真面目ならしむる所以にして、妄想減じ、実想殖ゆるは、人生の正午期に入るの用意を怠らしめざる基ゐなる可けむ。
 厭世家が恋愛に対すること常人よりも激切なるの理由、前に既に述べたり。怪しきかな、恋愛の厭世家を眩《げん》せしむるの容易なるが如くに、婚姻は厭世家を失望せしむる事甚だ容易なり。そも/\厭世家なるものは社界の規律に遵《したが》ふこと能はざる者なり、社界を以て家となさゞる者なり、「世に愛せられず、世をも愛せざる者なり」(I love not the world, nor the world me.)繩墨の規矩《きく》に掣肘《せいちう》せらるゝこと能はざる者なり、「普通の快楽は以て快楽と認められざる者なり」(My pleasure is not that of the world, etc.)一言すれば彼等が穢土と罵るこの娑婆に於て、社界といふ組織を為す可き資格を欠ける者なり。故に多くの希望を以て、多くの想像を以て入りたる婚姻の結合は、彼等をして敵地に蹈入らしめたるが如きのみ。彼等が明鏡の裡《うち》に我が真影の写るを見て、益《ます/\》厭世の度を高うすべきも、婚姻の歓楽は彼等を誠信と楽天に導くには力足らぬなり。
 彼等は人世を厭離するの思想こそあれ、人世に覊束せられんことは思ひも寄らぬところなり。婚姻が彼等をして一層社界を嫌厭せしめ、一層義務に背かしめ、一層不満を多からしむる者、是を以てなり。かるが故に始《はじめ》に過重なる希望を以て入りたる婚姻は
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