一夕観
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)郷《さと》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)虫声|縷《る》の如く
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しよく/\
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其一
ある宵われ※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《まど》にあたりて横はる。ところは海の郷《さと》、秋高く天朗らかにして、よろづの象《かたち》、よろづの物、凛乎《りんこ》として我に迫る。恰《あたか》も我が真率ならざるを笑ふに似たり。恰も我が局促《きよくそく》たるを嘲るに似たり。恰も我が力なく能なく弁なく気なきを罵るに似たり。渠《かれ》は斯の如く我に徹透す、而して我は地上の一微物、渠に悟達することの甚《はな》はだ難きは如何ぞや。
月は晩《おそ》くして未だ上るに及ばず。仰いで蒼穹を観れば、無数の星宿紛糾して我が頭にあり。顧みて我が五尺を視、更に又内観して我が内なるものを察するに、彼と我との距離甚だ遠きに驚ろく。不死不朽、彼と与《とも》にあり、衰老病死、我と与にあり。鮮美透涼なる彼に対して、撓《たわ》み易く折れ易き我れ如何に赧然《たんぜん》たるべきぞ。爰《こゝ》に於て、我は一種の悲慨に撃たれたるが如き心地す。聖にして熱ある悲慨、我が心頭に入れり。罵者の声耳辺にあるが如し、我が為《な》すなきと、我が言ふなきと、我が行くなきとを責む。われ起つて茅舎《ばうしや》を出で、且つ仰ぎ且つ俯して罵者に答ふるところあらんと欲す。胸中の苦悶未だ全く解けず、行く行く秋草の深き所に到れば、忽《たちま》ち聴く虫声|縷《る》の如く耳朶《じだ》を穿《うが》つを。之を聴いて我心は一転せり、再び之を聴いて悶心更に明かなり。曩《さき》に苦悶と思ひしは苦悶にあらざりけり。看よ、喞々《しよく/\》として秋を悲しむが如きもの、彼に於て何の悲しみかあらむ。彼を悲しむと看取せんか、我も亦た悲しめるなり。彼を吟哦《ぎんが》すと思はんか、我も亦た吟哦してあるなり。心境一転すれば彼も無く、我も無し、※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]焉《ばくえん》たる大空の百千の提燈を掲げ出せるあるのみ。
其二
われは歩して水際に下れり。浪白ろく万古の響を伝へ、水蒼々として永遠の色を宿せり。手を拱《こま》ねきて蒼穹を察すれば、我れ「我」を遺《わす》れて、飄然《へうぜん》として、襤褸《らんる》の如き「時」を脱するに似たり。
茫々乎たる空際は歴史の醇《じゆん》の醇なるもの、ホーマーありし時、プレトーありし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり。同じく彼を燭《て》らせり、同じく彼れを発《ひ》らけり。然り、人間の歴史は多くの夢想家を載せたりと雖《いへども》、天涯の歴史は太初より今日に至るまで、大なる現実として残れり。人間は之を幽奥《ミステリー》として畏《おそ》るゝと雖、大なる現実は始めより終りまで現実として残れり。人間は或は現実を唱へ、或は夢想を称《とな》へて、之を以て調和す可からざる原素の如く諍《あらそ》へる間に、天地の幽奥は依然として大なる現実として残れり。
其三
われは自《みづ》から問ひ、自から答へて安らかなる心を以て蓬窓《ほうさう》に反《かへ》れり。わが視《み》たる群星は未だ念頭を去らず、静かに燈を剪《き》つて書を読まんとするに、我が心はなほ彼にあり。我が読まんとする書は彼にあり。漠々たる大空は思想の広《ひ》ろき歴史の紙に似たり。彼処《かしこ》にホーマーあり、シヱークスピーアあり、彗星の天系を乱して行くはバイロン、ボルテーアの徒、流星の飛び且つ消ゆるは泛々《はん/\》たる文壇の小星、吁《あゝ》、悠々たる天地、限なく窮りなき天地、大なる歴史の一枚、是に対して暫らく茫然たり。
[#地から2字上げ](明治二十六年十一月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「評論 十六號」女學雜誌社
1893(明治26)年11月4日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2007年11月27日作成
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