の傾きを示すと雖《いへども》、今日の社界を距《さ》る事甚だ遠しとは言ふ可らず。栗原健介は極めて的実なり、市兵衛の如き、阿貞《おさだ》の如き、個々皆な生動す。而《しか》して美禰子と駒之助に至れば照応甚だ極好。深く今日の社界を学び、其奥底に潜める毒竜を捉《と》らへ来つて、之を公衆の眼前に斬伐《ざんばつ》せんとの志か、正太夫。
何《いづ》れの社界にも魔毒あり。流星怪しく西に飛ばぬ世の来らば、浅間の岳の火烟全く絶ゆる世ともならば、社界の魔毒全く其|帶《たい》を絶つ事もあるべしや。雲黒く気重く、身|蒸《む》され心|塞《ふさ》がれ、迷想|頻《しきり》に蝟集《ゐしふ》し来る、これ奇なり、怪なり、然れども人間遂にこれを免かること難し。黒雲果して魔か、大気果して毒か、肉眼の明を以て之を争ふは詩人にあらざるなり。黒雲|悉《こと/″\》く魔なるに非ず、大気悉く毒なるにあらず、啻《たゞ》黒雲に魔あり、大気に毒ある事を難ぜんとするは、実際世界を見るも実世界以外を見ること能はざる非詩性論者の業として、放任して可なり。
吾人《われら》は非精無心の草木と共に生活する者にあらず。慾に荒《す》さび、情に溺れ、癡《ち》に狂する人類の中に棲息する者なり、己れの身辺に春水の優々たるを以て楽天の本義を得たりとする詩人は知らず、斉しく情を解し同じく癡に駆られ、而して己れのみは身を挺して免れたる者の、他に対する憐憫《れんびん》と同情は遂に彼をして世を厭《いと》ひ、もしくは世を罵るに至らしめざるを得んや。世を厭ふものを以《も》て世を厭ふとするは非なり。世を罵る者を以て世を罵るとするは非なり。世を厭ふ者は世を厭ふに先《さきだ》ちて、己れを厭ふなり。世を罵る者は世を罵るに先だちて、己れを罵るなり。己れを遺《わす》れて世を遺るゝを知る。己を空《むなし》うして世を空うするを知る、誰れか己れを厭ふ事を知らずして真の厭世家となり、己れを罵ることを知らずして真の罵世家となるを得んや。
われは非凡なる緑雨の筆勢を察して、彼が人類の心宮《しんきう》を観ずるの法は、先づ其魔毒よりするを認めたり。彼は人類を軟骨動物と思做《おもひな》し、全く誠信なく、全く忠誠なく、心宮中に横威を奮ふ一種の怪魔が自由に人類を支配しつゝありて、咄々《とつ/\》、奇怪至極の此社界かなと観念し来りて、之を奸猾なる健介に寓し、之を窈窕《えうてう》たる美形美禰
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