「歌念仏」を読みて
北村透谷
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)巣林子《さうりんし》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)菩提|心《ごゝろ》と
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)のび/\の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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巣林子《さうりんし》の世話戯曲十中の八九は主人公《ヒロイン》を遊廓内に取れり、其清潔なる境地より取り来りたる者は甚だ少数なる中《うち》に「お夏清十郎歌念仏」は傑作として知られたり。余は「歌念仏」を愛読するの余《あまり》、其女主人公に就きて感じたるところを有《あり》の儘《まゝ》に筆にせんとするのみ。若《も》し巣林子著作の細評を聴かんとする者あらば、逍遙先生又は篁村《くわうそん》翁が許《もと》へ行かるべし、余豈巣林子を評すと言はんや。
中の巻の発端に「かゝる親には似ぬ娘、お夏は深き濡《ぬれ》ゆゑに、菩提|心《ごゝろ》と意地ばりて、嫁入も背《せい》ものび/\の」………と書出《かきいだ》して、お夏に既に恋ある事を示せり、然《しか》れども背ものび/\といふところにて、親々の眼には極めて処女《をとめ》らしく見ゆる事を知らせたり。清十郎(即ちお夏の情人《こひゞと》)が大坂より戻り来りたる事を次に出して、「目と目を合はする二人《ふたり》が中《なか》、無事な顔見て嬉いと、心に心を言はせたり」と有処《あるところ》にて、更に両人の情愛の秘密を示せり。
然《しかる》に清十郎が沓脱《くつぬぎ》に腰をかけて奥の方《かた》の嫁入支度を見て、平気にて「ハアヽ余所《よそ》には嫁入が有さうな云々《しか/″\》」と言ひしときにお夏が「又ねすり言ばつかり、おんなじ口で可愛やと云ふ事がならぬか、意地のわるい」と言ふ言葉を聞けば、お夏は既に処女にあらずして莫連者《ばくれんもの》か蓮葉者《はすはもの》のいたづらあがりの語気を吐けり。読んでお夏が「我も室《むろ》で育ちし故、母方が悪いの、傾城《けいせい》の風があるのとて、何処の嫁にも嫌はるゝ、これぞ宜《よ》い事幸ひと、猶《なほ》女郎の風を似せ」と云ひ出るに至りては、お夏が無邪気なる意気地と怜悧《れいり》なる恋の智慧を見るに足るべし、「あの立野《たちの》の阿呆顔《あはうづら》、敷銀《しきがね》に目がくれて、嫁に取《とら》うといやらしい」と云《いふ》一段に至りては、彼の恋愛の一徹にして処女らしきところを蔽ふ能《あたは》ず。
二人の情通露見したる時に、朋輩勘十郎の奸策《かんさく》同時に落ち来りて、清十郎が布子《ぬのこ》一枚にて追払はるゝ段より、お夏の愛情は一種の神韻を帯び来れり。清十郎の胸の中《うち》には恋の因果といふ猛火|燃《もえ》しきりて、主従の縁きるゝ神の咎《とが》めを浩歎《かうたん》して、七苦八苦の地獄に顛堕《てんだ》したるを、お夏の方《かた》にては唯だ熾熱《しねつ》せる愛情と堪《た》ゆべからざる同情あるのみ。ひそかに部屋の戸を開きて外に出《いづ》れば悽惻《せいそく》として情人未だ去らず、泣いて遠国に連《つれ》よとくどく時に、清十郎は親方の情《なさけ》にしがらまれて得|応《いら》へず、然るを女の狂愛の甚しきに惹《ひ》かされて、遂に其《その》誘惑に従はんと決心するまでに至りし頃、中《うち》より人の騒ぎ出《いで》たるに驚かされて止《やみ》ぬ。美術の上にて言ふ時は、お夏のこの時の底から根からの恋慾は、巧に穿《うが》ち得たるところなるべし。
清十郎の追払れたりし時には未だ分別の閭《ちまた》には迷はざりしものを、このお夏の狂愛に魅せられし後の彼は、早や気は転乱し、仕損《しそこな》ふたら浮世は闇、跡先見えぬ出来心にて、勘十郎と思ひ誤りて他《ほか》の朋輩なる源十郎を刺殺したるも、恋故の闇に迷へばこそ。清十郎既に人を殺して勘十郎の見出すところとなり、家の内外《うちそと》に大騒擾《おほさうぜう》となりたる時にお夏は狂乱したり、其狂乱は次の如き霊妙の筆に描出せらる。
「あれお夏/\と呼ぶわいの、おう/\其所にか、どこにぞ、いや/\いや待て暫し、あれは我屋《わがや》に父の声、我を尋ねて我を呼ぶ、親も懐《ゆか》しや、夫《つま》も恋しや、父は子をよぶ夜の鶴、我は夫《つま》よぶ野辺の雉子《きじ》」又下の巻に入りて「宵《よ》さこいと云ふ字を金紗《きんしや》で縫はせ」より以下「向ひ通るは清十郎ぢやないか、笠がよく似た、菅笠《すげがさ》が、よく似た笠が、笠がよく似た菅笠がえ。笠を案内《しるべ》の物狂ひ」の一節。「なう/\あれなる御僧《ごそう》、我《わが》殿御かへしてたべ、何処《いづく》へつれて行く事ぞ、男返してたべなう、いや御僧とは空目《そらめ》かや」の一節。「尋ぬる夫の容形《なりかたち》、姿は詞に語るとも、心は筆も及びなき、ぼんじやりとしてきつとして、花橘の袖の香に」以下の一節|等《など》は、いかにもヲフヱリヤが狂ひに狂ひし歌に比べて多く愧《はぢ》ず。「フオースト」のマーガレツトが其|夫《をつと》の去りたるあとに心狂はしく歌ひ出でたる「我が心は重し、我平和は失せたり」の霊妙なる歌にくらべても、左《さ》まで劣るべしとは思はれず。
疑ひもなく「お夏」は巣林子の想中より生み出《いだ》せる女主人公中にて尤も自然に近き者なり、又た尤も美妙なる霊韻に富める者なり。梅川の如き、小春の如き、お房の如き、小万の如き、皆是れ或一種の屈曲を経て凝《こ》りたる恋にあらざるはなし、男の情を釣りたる上にて釣られたる者にあらざるはなし、或事情と境遇の圧迫に遭《あひ》て、心中する迄深く契りたるにあらざるはなし、然に此篇のお夏は、主人の娘として下僕《かぼく》に情を寄せ、其情は初《はじめ》に肉情《センシユアル》に起りたるにせよ、後《のち》に至《いたり》て立派なる情愛《アツフヱクシヨン》にうつり、果《はて》は極《きはめ》て神聖なる恋愛《ラブ》に迄進みぬ。
著者は元よりフオーストの如き哲学的生産の男主人公を作る可き戯曲家にはあらざりし。然れども清十郎の品格を※[#「てへん+僉」、第3水準1−84−94]《さが》し来《きた》れば、忠兵衛、平兵衛、治兵衛、其他の如き暗迷の資性とは趣きを異にするところ多し、お夏の口にて言はせたる「姿は詞に語るとも、心は筆も及びなき」にて、既にその高品の心[#「心」に白丸傍点]なる事を示し、追ひ払はれたる後に後悔の言葉、または末段の「虚言《いつはり》を云ふまじと、毎朝《まいてう》天道氏神を祈りしかども、若き者の悲しさは、只今非業に死《しな》んとは思ひも寄らず」より以下、句々妙味あり、述懐に於て其人品の異凡なる事を示せり。左ればお夏が愛情の自《おのづ》からに霊韻を含む様《やう》になるも自然の結果にて、作者の用意浅しと云ふ可からず。
余は此篇を以《も》て巣林子が恋愛に対する理想の極高なるものと言はんと欲す。世に恋愛なるものゝ全く抽き去るを得て、凡《すべ》て神聖なる宗教的思想の統御に帰する事あらば、恋愛のことを談ぜざるもよし、苟《いやし》くも恋愛が人生の一大|秘鑰《ひやく》たる以上は、其素性の高潔なるところより出で、其《その》成行の自然に近かるべきは、文学上に於て希望せざるを得ざる一大要件なり。
抑《そもそ》も恋愛は凡ての愛情の初めなり、親子の愛より朋友の愛に至《いたる》まで、凡《およ》そ愛情の名を荷ふべき者にして恋愛の根基より起らざるものはなし、進んで上天に達すべき浄愛までもこの恋愛と関聯すること多く、人間の運命の主要なる部分までもこの男女の恋愛に因縁すること少なからず。左れば文人の恋愛に対するや、須《すべか》らく厳粛なる思想を以《も》て其美妙を発揮するを力《つと》むべく、苟くも卑野なる、軽佻《けいてう》なる、浮薄なる心情を以て写描することなかるべし。
高尚なる意あるものには恋愛の必要特に多し、そは其心に打ち消す可からざる弱性と不満足と常に宿り居ればなり、恋愛なるものはこの弱性を療《れう》じ、この不満足を愈《いや》さんが為に天より賜はりたる至大の恩恵にして、男女が互に劣情を縦《ほしいまゝ》にする禽獣的慾情とは品異れり。プラトーの言へりし如く、恋愛は地下のものにはあらざるなり、天上より地下に降《くだ》りたる神使の如きものなることを記憶せよ。野外に逍遙して芬郁《ふんいく》たる花香をかぐときに、其花の在るところに至らんと願ふは自然の情なり、其花に達する時に之を摘み取りて胸に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》まんとするも亦た自然の情なり、この情は底なき湖の如くに、一種の自然界の元素と呼ぶより外はなかるべし、之を打つとも破るべからず、之を鋳るとも形《けい》すべからず、之を抜き去らんとするも能《よ》くすべからず、宇宙の存すると共に存する一種の霊界の原素にあらずして何ぞや。
恋愛は詩人の一生の重荷なり、之を説明せんが為に五十年の生涯は不足なり、然れども詩人と名の付きたる人は必らずこの恋愛の幾部分かを解得《げとく》したるものなり。而して恋愛の本性を審《つまびらか》にするは、古今の大詩人中にても少数の人能く之を為せり、美は到底説明し尽くすべからざるものにして、恋愛の中《うち》に含める美も、到底説明し得《えら》るまでには到ること能はず、然れども詩人の職は説明にのみ限るにあらずして、説明すべからざる者をその儘に写し出るも亦た詩人の職なれば、詩の神《しん》に入りたる詩人の為すところは、説明に力を籠《こ》めずして、却《かへ》つて写実に精を凝《こ》らすにありき。
写実とは云へども、世の所謂実際派の為すごとく、人間の獣慾を惟一《ゆゐいつ》の目的として描出するの謂《いひ》にあらず、人間に不完全の認識あるよりして、何物かを得て之を贖《つぐな》はんとの慾望は天地間自然の理なれば、此慾望の一転して他の美妙なる位地に思慕を生ずる実情を描写するを、詩人の本領とは云ふなり。バイロンがうたひし如く、己の冷々たる胸に温熱を生じ、己れの頑剛なる質を和《やは》らげて、優柔なる性情を与ふるもの、即ちこの不完全が多少完全になされし徴《ちよう》なり、これを為すもの恋愛の妙力にあらずして何ぞ。
「ロメオ・アンド・ジユリヱット」の著者は、何が故にロメオが欝樹叢中に彷徨《はうくわう》したりしやを記せず。彼は唯だロメオに自然なる一種の思慕ある事を顕はすに甘んじたり、一種の思慕とは即ち前に言ひし一種の原素なり、彼は此原素を説明せずして、この原素を写実したり。「ハムレット」の著者は明らかに人々をしてハムレットの恋愛に狂へる者なることを言はしめ、其ヲフヱリヤとの問答に就きて之を確かめんとはせしめたり。これもロメオを書きし恋愛に対する極致と趣を一にして、唯だ是にては他に大《おほい》なる不完全不調子の実現を備へたる点に於て異なるのみ。「フオースト」の著者が其主人公をしてマーガレットに近づかしめ、一瞬時に愛情を湧出せしめて、従前の不完全なる観想の大結局を恋愛の中に総《す》べたるなど、恋愛の不可抜なる大原素なることを認むるにあらずんば能はざるところとす。
日本文学史を観じ来れば恋愛に対する理想、余をして痛歎せしむるもの多し。別して巣林子の著作の中《うち》に恋愛の恋愛らしきもの甚だ尠《すく》なきを悲しまざるを得ず。蓋《けだ》し其の爰《こゝ》に到らしめしもの諸種の原因あるべし。万有教の教理寂滅の宗教思想より来れる関係、支那文学史との関係、気候風土より発生せる色情の悪風、其他区々あるべしと思はるれど、兎《と》に角《かく》事実として、肉情より愛情に入り愛情より恋愛に移ることを記する著作の多きこと、疑ふ可からず。生命あり希望あり永遠あるの恋愛は、到底万有教国に求むることを得ざるか、そも/\いつかは之を得るに至るべきか、我邦《わがくに》文学の為に杞憂なき能はず。
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