《しん》に入りたる詩人の為すところは、説明に力を籠《こ》めずして、却《かへ》つて写実に精を凝《こ》らすにありき。
写実とは云へども、世の所謂実際派の為すごとく、人間の獣慾を惟一《ゆゐいつ》の目的として描出するの謂《いひ》にあらず、人間に不完全の認識あるよりして、何物かを得て之を贖《つぐな》はんとの慾望は天地間自然の理なれば、此慾望の一転して他の美妙なる位地に思慕を生ずる実情を描写するを、詩人の本領とは云ふなり。バイロンがうたひし如く、己の冷々たる胸に温熱を生じ、己れの頑剛なる質を和《やは》らげて、優柔なる性情を与ふるもの、即ちこの不完全が多少完全になされし徴《ちよう》なり、これを為すもの恋愛の妙力にあらずして何ぞ。
「ロメオ・アンド・ジユリヱット」の著者は、何が故にロメオが欝樹叢中に彷徨《はうくわう》したりしやを記せず。彼は唯だロメオに自然なる一種の思慕ある事を顕はすに甘んじたり、一種の思慕とは即ち前に言ひし一種の原素なり、彼は此原素を説明せずして、この原素を写実したり。「ハムレット」の著者は明らかに人々をしてハムレットの恋愛に狂へる者なることを言はしめ、其ヲフヱリヤとの問答に就きて之を確かめんとはせしめたり。これもロメオを書きし恋愛に対する極致と趣を一にして、唯だ是にては他に大《おほい》なる不完全不調子の実現を備へたる点に於て異なるのみ。「フオースト」の著者が其主人公をしてマーガレットに近づかしめ、一瞬時に愛情を湧出せしめて、従前の不完全なる観想の大結局を恋愛の中に総《す》べたるなど、恋愛の不可抜なる大原素なることを認むるにあらずんば能はざるところとす。
日本文学史を観じ来れば恋愛に対する理想、余をして痛歎せしむるもの多し。別して巣林子の著作の中《うち》に恋愛の恋愛らしきもの甚だ尠《すく》なきを悲しまざるを得ず。蓋《けだ》し其の爰《こゝ》に到らしめしもの諸種の原因あるべし。万有教の教理寂滅の宗教思想より来れる関係、支那文学史との関係、気候風土より発生せる色情の悪風、其他区々あるべしと思はるれど、兎《と》に角《かく》事実として、肉情より愛情に入り愛情より恋愛に移ることを記する著作の多きこと、疑ふ可からず。生命あり希望あり永遠あるの恋愛は、到底万有教国に求むることを得ざるか、そも/\いつかは之を得るに至るべきか、我邦《わがくに》文学の為に杞憂なき能はず。
「歌念仏
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