至りては、お夏が無邪気なる意気地と怜悧《れいり》なる恋の智慧を見るに足るべし、「あの立野《たちの》の阿呆顔《あはうづら》、敷銀《しきがね》に目がくれて、嫁に取《とら》うといやらしい」と云《いふ》一段に至りては、彼の恋愛の一徹にして処女らしきところを蔽ふ能《あたは》ず。
 二人の情通露見したる時に、朋輩勘十郎の奸策《かんさく》同時に落ち来りて、清十郎が布子《ぬのこ》一枚にて追払はるゝ段より、お夏の愛情は一種の神韻を帯び来れり。清十郎の胸の中《うち》には恋の因果といふ猛火|燃《もえ》しきりて、主従の縁きるゝ神の咎《とが》めを浩歎《かうたん》して、七苦八苦の地獄に顛堕《てんだ》したるを、お夏の方《かた》にては唯だ熾熱《しねつ》せる愛情と堪《た》ゆべからざる同情あるのみ。ひそかに部屋の戸を開きて外に出《いづ》れば悽惻《せいそく》として情人未だ去らず、泣いて遠国に連《つれ》よとくどく時に、清十郎は親方の情《なさけ》にしがらまれて得|応《いら》へず、然るを女の狂愛の甚しきに惹《ひ》かされて、遂に其《その》誘惑に従はんと決心するまでに至りし頃、中《うち》より人の騒ぎ出《いで》たるに驚かされて止《やみ》ぬ。美術の上にて言ふ時は、お夏のこの時の底から根からの恋慾は、巧に穿《うが》ち得たるところなるべし。
 清十郎の追払れたりし時には未だ分別の閭《ちまた》には迷はざりしものを、このお夏の狂愛に魅せられし後の彼は、早や気は転乱し、仕損《しそこな》ふたら浮世は闇、跡先見えぬ出来心にて、勘十郎と思ひ誤りて他《ほか》の朋輩なる源十郎を刺殺したるも、恋故の闇に迷へばこそ。清十郎既に人を殺して勘十郎の見出すところとなり、家の内外《うちそと》に大騒擾《おほさうぜう》となりたる時にお夏は狂乱したり、其狂乱は次の如き霊妙の筆に描出せらる。
「あれお夏/\と呼ぶわいの、おう/\其所にか、どこにぞ、いや/\いや待て暫し、あれは我屋《わがや》に父の声、我を尋ねて我を呼ぶ、親も懐《ゆか》しや、夫《つま》も恋しや、父は子をよぶ夜の鶴、我は夫《つま》よぶ野辺の雉子《きじ》」又下の巻に入りて「宵《よ》さこいと云ふ字を金紗《きんしや》で縫はせ」より以下「向ひ通るは清十郎ぢやないか、笠がよく似た、菅笠《すげがさ》が、よく似た笠が、笠がよく似た菅笠がえ。笠を案内《しるべ》の物狂ひ」の一節。「なう/\あれなる御僧《ごそう》、
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北村 透谷 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング