「伽羅枕」及び「新葉末集」
北村透谷

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)辻浄瑠璃《つじじやうるり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)其|生立《おひたち》

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(例)※[#「女+爾」、第4水準2−5−85]母《はゝ》に

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)きふ/\
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 一は実を主とし、一は想を旨とする紅葉と露伴。一は客観的実相を尚び、一は主観的心想を重んずる当代の両名家。紅葉は「伽羅枕」を、露伴は「辻浄瑠璃《つじじやうるり》」を、時を同うして作り出たり。此二書に就き世評既に定まれるにも拘《かゝは》らず、余は聊《いさゝか》余が読来り読去る間《ま》に念頭に浮びし感を記する事となしぬ。
 余は二作を読み了《をは》りける後、奇《く》しくも実想相分るゝ二大家の作に同致《アイデンチヽイ》の跡瞭然見る可き者あるを認めぬ。従来の諸作は分明に紅葉をして細微なる人情の観察者たらしめ、露伴をして逸調の奇想を吐く者たらしめたるに、不思議にも「伽羅枕」及「新葉末集」に至りて、両家の意匠の、其外部の形式の如何《いかん》に拘らず、陰然相似たる所あるが如し。
 紅葉の佐太夫は女性にして、露伴の道也《だうや》は男性なり。然《しか》れども両著者の意匠中に入りて其奥を窺《うかゞ》へば、佐太夫も道也も男女の境を脱して、混沌として唯だ両主人公の元素同一なるを認むべきのみ。佐太夫とは歴々武士の落胤《らくいん》、道也とは名家釜師のなれの果て、其|生立《おひたち》を聞けば彼も母一人此も母一人、彼は娼家に養はれ、此は遊蕩《いうたう》と呼ぶ※[#「女+爾」、第4水準2−5−85]母《はゝ》に養はる。彼は売色塲|裡《り》に人と成り、此も好色修行に身を抛《なげう》ち、彼も華奢豪逸を以て心事となし、此も銀むくの煙管を路傍の狗《いぬ》に与へて去るの傲遊《がういう》を以て快事となす。此等の同致を列記すれば際限あらじ、然《しか》れ雖《ども》余が此二作の意匠相似たりと言ふは、此等外部の同致のみにあらず、作家着想の根本に入りて、理想の同致あるを認めたればなり。
 若《も》し推《すゐ》して言ふ事を得せしめば、紅葉は露伴の長所に、少くとも乗入らんとせしなり、而《しか》して露伴も亦た「対髑髏《たいどくろ》」、「奇男児」等の鋭利なる奇想を廻り遠しとや思ひけむ、紅葉独得の写実界にまぐれ込まむとの野心を抱きしなり。故に「伽羅枕」は紅葉従来の作に見る可からざる奇気を吐けり、而して「新葉末集」は露伴が登壇以来見せし事なき人情の微妙を細察したり。然れども余は両作家の位地全然転倒したりと言ふにはあらず、唯だ紅葉は露伴に近づき、露伴も亦た紅葉に近寄り、而して紅葉は紅葉の本躰を備へ、露伴は露伴の実色をあらはすと言ふのみ。某評者の言へりし如く、佐太夫の生涯は江戸の苦海に沈みし後、前半部とは全く異《ことな》れる人物となれり。又た同評者の言はれし如く、所々に時代違ひの如き者あり。要するに彼が其実姉に会ひて後の心想は全く変じて、前半部若し紅葉独得の写実筆法なりせば、後半部はむしろ理想――遊廓内の女豪傑を写す筆法を変じ来りて、往々にして有り得べからざるが如き事実を写し出《いだ》す事、他の諸作に比して不似合なるを覚えしむ。究竟《きうきやう》するに紅葉は実を写す特有の天才より移つて、佐太夫なる、或意味に於ての理想的伝記を画き出たるを以て、平常《へいぜい》の細微巧麗なる紅葉の作を読み慣れたる眼には、何となく琴曲を欲《おも》ふ時に薩摩《さつま》琵琶《びは》を聞くが如きの感あるなれ。余は佐太夫を以て紅葉の理想なりとは断ぜず、唯だ其性質の天晴|傾城《けいせい》の神《しん》とも言はる可き程なるを見て、紅葉は写実の点より墨を染めたりと言はんより、寧ろ理想上の一紅唇、「両刀横へていかめし作りの胸毛男を、幾人《いくたり》も随伴《とも》に引連れ」たる姉が身を、眼下に見下さんほどの粋の粋、廓内にての女豪傑になつたる佐太夫を主観的に画き出たりと見るは非か。
 去つて「新葉末集」を読め。「風流仏《ふうりうぶつ》」、「一口剣《いつこうけん》」等に幽妙なる小天地想を嘔《うた》ひ、一種奇気抜く可らざる哲理を含みたる露伴の詩骨は徒《いたづ》らに「心機霊活の妖物」なる道也の影に痩《や》せさらばひぬ。道也は実に一妖物なり、奇物なり、露伴にあらずんば誰か能《よ》く斯般《しはん》の妖物奇物を擒《とりこ》にせん。平凡無癖を以て愚物なりとし、一癖あるにあらざれば談ずるに足らずとする露伴に道也あるは、無理ならぬ事なり。蓋《けだ》し理想詩人の性として必らず人生を其或る一面相より観察する者なる故に、道也が「奇男児」を作りたる詩人の懐裡に宿りたるは無理ならぬ事なり。然れども道也は理想上の人物として、佐太夫と共に心機霊活の妖物として、遊廓内の豪傑として、粋の粋として、遂《つひ》に佐太夫程に妙ならず、理想家としての露伴が写実家なる紅葉のこの種の理想に於て少しく席を譲りたるを惜しむ。然れども元よりこの種の理想に於て優劣を較《かく》するの愚を、われ学ぶ者ならず、若し夫《そ》れ明治の想実両大家が遊廓内の理想上の豪傑を画くに汲々《きふ/\》し、我が文学をして再び元禄の昔に返らしむる事あらば、吾人の遺憾いかばかりぞや。
 この両著書に於て二大家相|邇近《じきん》したりとは前に述べたる所なるが、偖《さ》て両著書の相邇近したる中心点は何処《いづこ》に存するや。言《ことば》を換へて云へば両著書が小極致とするところは、何《いづ》れにありや、何れにありて同致を見《あら》はすや。曰く、両書共に元禄文学の心膸を穿《うが》ち、之に思ひ思ひの装束を着けて出たるところにあり。或人は此書に於て露伴の文章|漸《やうや》く西鶴を離れて独創の躰を出《いだ》せりと言ひしが、文章に於ては或は然あらんかなれども、其想に至りては却《かへつ》て元禄を学ぶこと前の著述よりも多きに似たるを怪しむ。「伽羅枕」が紅葉の「一代女」にして、公けに元禄を代表する事、批評家既に言へり。われ二大家を以て元禄作家の摸擬者と貶する者ならず、別に天真の詩才ありて存すること我が深く二大家に信ずる所なるが、可惜《をしむべし》、此二書の世に出たるより、余をしてかねて元禄文学に面白からずと思ひしところを、此二書を通じて訴へ出づるの止むを得ざるに至らしめぬ。
 そも元禄文学の軽佻《けいてう》なるは其章句の不覊《ふき》放逸なるが故のみならずして、其想膸の軽佻なるが故なり。謡曲時代の幽玄なる思想を見ざるのみならず、優美高妙なる精神を失ひたるのみならず、遊廓内に成長したるのみならず、是等の者を外《よそ》にしても、元禄文学が大に我邦《わがくに》文学に罪を造りたる者あり、其《そ》を如何《いか》にと言ふに、恋愛を其自然なる地位より退けたる事、即ち是なり。恋愛なる者は人生の秘機を説明すべき妖女にして、恋愛を除きたる暁には恐らく美術も文学も価なき珠となり果《は》つべけん、彼《か》の軽佻なる元禄文学は遊廓内の理想家とも言つべき魔道文学者、好《よ》し其始祖には何か抜く可からざる一貫の見識ありたりとせんも、其相続者摸擬者等の文学上の位地を看《み》れば、恐らく遊廓を以て彼等の天園と見做《みな》し、正路を歩むの人を愚物視し、人生の大不調子、大不都合を見るよりも寧《むし》ろ小頑小癖小不調子小不都合の眼を具するを尚び、偏曲|※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]弱《なんじやく》なる意気より朴直なる野暮の中に隠れたる美を嘲り、至善至悪に対する妙念は残らず擺脱《はいだつ》し去りて只《た》だ慾火炎上の曲りくねりたる一時のすゞしさを此上なき者と珍重す。夫れ恋愛は花なり、造化の花なり、之を碧玉瓶中に見るよりも墨※[#「土へん+它」、第4水準2−4−68]《ぼくだ》堤上に見るに美の価あり。然《しか》れども去《さつ》て吉野の物さびたる造化の深き峰のあたりに見るに、其美、其妙、塵垢に近き墨※[#「土へん+它」、第4水準2−4−68]の外《ほか》に勝る事幾倍なるを知るべし。何となれば花は元《もとも》と造化《ネーチユーア》の天使なるが故に尊きにて、造化の威厳と妙契とが深ければ深き程、其花の妙は尊きなれ。恋愛も亦た斯《か》くの如く造化の妙契と威厳に遠ざかるところには、如何に豪逸奢美を粧ふとも、其美、其妙は枯痩して、浜の砂地に生えたる小草に、あはれ気に咲く花の如けんかし。遊廓は即ち砂地なり、其|中《うち》に生えたる花は即ち遊廓的恋愛なり、美の真ならず自然ならぬ事、多言を用ひずして明瞭なる可し。さりとて元禄文学が遊廓内の事[#「事」に白丸傍点]のみを主としたりと言ふにはあらず、然れども元禄文学者の恋愛に対する思想は、好し純然たる遊廓外の素人《しろうと》を写す場合にも宛然として遊廓的恋愛、即ち世に所謂《いはゆる》好色的恋愛を主としたる事実は、一点の弁析《べんせき》を容るゝの余地なかるべし。思へ、好色と恋愛と文学上に幾許《いくばく》の懸隔あるを、好色は人類の最下等の獣性を縦《ほしいまゝ》にしたるもの、恋愛は、人類の霊生の美妙を発暢《はつちやう》すべき者なる事を、好色を写す、即ち人類を自堕落の獣界に追ふ者にして、真《まこと》の恋愛を写す、即ち人間をして美を備へ、霊を具する者となす事を、好色の教導者となり通弁官となりつる文士は、即ち人類を駆つて下等動物とならしめ、且つ文学上に至妙至美なる恋愛を残害する者なる事を。
「伽羅枕」を読みたらむ人は必らず、佐太夫なる魔女の終始一回も盲目的恋愛に陥らざるを認むるなる可し。十五にして苦海に堕《お》ち、それより浮沈隆替の跡は種々に異なれども、要するに色を売る歴史のみにして、恋を談ずる者にあらず。作者が霜頭翁のみを撰みて渠《かれ》に配せしも、恐らくは渠をして没恋愛修行を為さしめんとの心にてやあるべし。三枚橋辺にて高貴の内政たる異母姉に面したる時の感慨は女性らしき思想を一変して、あはれわれも女に生れ出《いで》たる上は、三千世界の遊冶郎《いうやらう》を蕩《とろ》かし尽さんとの大勇猛を起さしめたり。
 女性はどこまでも女性らしく写すを可とす、どこまでも自然に応《かな》ふを以て写実主義の本色とすなる可し。若し強《しひ》て女性を男子らしくし、女性にあるまじき大勇猛を起さしめ、然も一点己れの本心を着けず、売色といふことのみの大技倆を以て、一種の女豪傑を写さんとするは、むかし元禄時代の河原|乞児《こじき》がべらんめい言葉の景時に※[#「にんべん+分」、第3水準1−14−9]《ふん》し、後紐《うしろひも》位にて忠義の為に割腹するなどの不自然と同一轍に陥る可し。江戸の色海に沈みてよりの佐太夫と、霜頭疎歯の老翁に侍せし佐太夫と全く別人の如くなりしも、作者の意匠の写実的ならず、一女性の境遇を真直に写すにあらずして、寧ろ主観的に斯の如き女豪傑ありたらば面白しと理想したる結果なりけむ。
 理想の女豪なる佐太夫は如何なる特美をか有する。曰く、粋七分侠三分なり。粋は遊廓内の大菩薩なり、いにしへより元禄派の文士の本尊仏は則ち是なり。侠も亦《ま》た遊廓内に何権理《なにけんり》とか名の付く可き者なり。而して紅葉は実に如是《かくのごとき》妙法の功力を説法せんとの意ありしや否やは兎《と》に角《かく》、佐太夫なる人物は宛然たる粋の女王なり。紅葉の説明せんと企てたるは、粋の粋の其奥に入りたる玄妙不思議なるところは如何なる可き、といふ問題にてやあらむ。
 佐太夫は天晴《あつぱれ》、粋の女王なり。然れども余は佐太夫を得て、明治文学の為に泣かざるを得ず。明治文学をして再び元禄文学の如くに、遊廓内の理想に屈従せしむるの恥辱を受けしめんとするを悲しまざるを得ず。黄表紙も可なり、道行も可なり、其形式を保存するは尚《な》ほ忍ぶ可し、想膸を学び、理想を習ふに至つては、余輩明治文学を思ふ者をして、転《うたゝ》
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