枕」を読みたらむ人は必らず、佐太夫なる魔女の終始一回も盲目的恋愛に陥らざるを認むるなる可し。十五にして苦海に堕《お》ち、それより浮沈隆替の跡は種々に異なれども、要するに色を売る歴史のみにして、恋を談ずる者にあらず。作者が霜頭翁のみを撰みて渠《かれ》に配せしも、恐らくは渠をして没恋愛修行を為さしめんとの心にてやあるべし。三枚橋辺にて高貴の内政たる異母姉に面したる時の感慨は女性らしき思想を一変して、あはれわれも女に生れ出《いで》たる上は、三千世界の遊冶郎《いうやらう》を蕩《とろ》かし尽さんとの大勇猛を起さしめたり。
女性はどこまでも女性らしく写すを可とす、どこまでも自然に応《かな》ふを以て写実主義の本色とすなる可し。若し強《しひ》て女性を男子らしくし、女性にあるまじき大勇猛を起さしめ、然も一点己れの本心を着けず、売色といふことのみの大技倆を以て、一種の女豪傑を写さんとするは、むかし元禄時代の河原|乞児《こじき》がべらんめい言葉の景時に※[#「にんべん+分」、第3水準1−14−9]《ふん》し、後紐《うしろひも》位にて忠義の為に割腹するなどの不自然と同一轍に陥る可し。江戸の色海に沈みてよりの佐太夫と、霜頭疎歯の老翁に侍せし佐太夫と全く別人の如くなりしも、作者の意匠の写実的ならず、一女性の境遇を真直に写すにあらずして、寧ろ主観的に斯の如き女豪傑ありたらば面白しと理想したる結果なりけむ。
理想の女豪なる佐太夫は如何なる特美をか有する。曰く、粋七分侠三分なり。粋は遊廓内の大菩薩なり、いにしへより元禄派の文士の本尊仏は則ち是なり。侠も亦《ま》た遊廓内に何権理《なにけんり》とか名の付く可き者なり。而して紅葉は実に如是《かくのごとき》妙法の功力を説法せんとの意ありしや否やは兎《と》に角《かく》、佐太夫なる人物は宛然たる粋の女王なり。紅葉の説明せんと企てたるは、粋の粋の其奥に入りたる玄妙不思議なるところは如何なる可き、といふ問題にてやあらむ。
佐太夫は天晴《あつぱれ》、粋の女王なり。然れども余は佐太夫を得て、明治文学の為に泣かざるを得ず。明治文学をして再び元禄文学の如くに、遊廓内の理想に屈従せしむるの恥辱を受けしめんとするを悲しまざるを得ず。黄表紙も可なり、道行も可なり、其形式を保存するは尚《な》ほ忍ぶ可し、想膸を学び、理想を習ふに至つては、余輩明治文学を思ふ者をして、転《うたゝ》、慨歎に堪《た》へざらしむ。そも粋と呼ばるゝ者、いかなる性質より成れるか、そも売色女の境遇より、如何なる自然の心を読み得るか。われ多言するに勝《た》へざるなり。元禄文学の品質如何は、他日詳論すべき心算ある故に、爰《こゝ》には之を言はず。唯だ余は明治の大家なる紅葉が不自然なる女豪を写し出《いだ》して、恋愛道以外に好色道を教へたるを憾《うら》む事限りなし。
われは「風流仏」及び「一口剣」を愛読す。常に謂《おも》へらく、此二書こそ露伴の作として不朽《インモータル》なる可けれ。何が故に二書を愛読する、曰く、一種の沈痛深刻なる哲理の其|中《うち》に存するあるを見ればなり。今や二書に慣れたる眼を転じて「辻浄瑠璃」を見るに、恰《あたか》も深山に入りたる後に塵飆《ぢんへう》の小都会に出《いづ》るが如き感あり。灼々《しやく/\》たる野花を見ず。磊々《らい/\》たる危巌を見ず。森欝《しんうつ》たる幽沢を見ず。一奇男児なる道也、其粉飾を脱し去れば、凡々たる遊冶郎。所謂心機霊活なる者も、左《さ》したる霊活にはあらざるなり。われは理想詩人なる露伴が写実作者の領界に闖入《ちんにふ》して、却《かへ》つて烏の真似をすると言はれんより、其奇想を養ひ、其哲理を練り、あはれ大光明を発《はな》ちて、凡悩の衆生を済度せられん事を願ふて止まざるなり。
[#地から2字上げ](明治二十五年三月)
底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三〇八號〜三〇九號」女學雜誌社
1892(明治25)年3月12日、19日
※「場」と「塲」の混在は底本どおりです。
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2006年4月28日作成
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