氣がした。
「ぜんこ、ぜんこ! よオー」
 由は源吉の身體をゆすり出した。源吉はだまつて、身體を、急にひねつた。由は、他愛もなく、轉がつた。なほ激しく泣き出した。
「うんと騷げ、この糞たれ!」母親が、たまりかねたやうに又怒鳴つた。
 源吉は、何んか、かう向ツ腹が不愉快に、ヂリ/\と立つてくるのを感じてゐた。
 外へ、子供が二人程由を呼びに來た。
「ホラ、由、呼んでるど。」
 由は、今迄泣いてゐたのを急にやめると、袖で顏中をぬぐつて、變な、附けたりの、極りの惡い笑ひ顏をして、外へ出て行つた。
 源吉は仰向けに、煤けて黒光りに光つてゐる天井を、ぼんやり見ながら、今晩は行くまい、さう考へてゐた。
 晩方になつて、表をガヤ/\七、八人の人が通つて行つた。停車場のある町から來た手踊りの連中だつた。紺のゴワ/\した大きな風呂敷包みを背負つた、色眼鏡をかけた男や、白粉をぬつた頬骨の出てゐる痩せた男、三味線を肩から釣つた、これも色眼鏡をかけた女、それにコテ/\と白粉をつけた十七、八の娘と七つ八つの女の子が三人程ゐた。その後から、村の子供達が四、五人ついてゐた。
 源吉は寢ころんだまゝぼんやりしてゐた。そのすぐ側で、お文が所々裏の赤いのが剥げてゐる鏡に向つて坐つてゐた。何處から持つてきたのか、白粉の瓶を、自分の掌に逆さに振つては、顏につけてゐた。源吉はさつきから一口も、誰にも、云はないでゐた。
「今度《こんだ》どんな手踊りがあるんだらう?」お文は鏡から眼を外さずに云つた。
 源吉は聞いてゐなかつたのか、だまつてゐた。お文には、別に返事のいることでなかつた。自分で何か云ひながら、そのくせ鏡に全部氣を取られてゐた。返事を待つてもゐなかつたので、源吉のことには氣付かなかつた。
「石田の録さんが、浪花節をやるつて……。」
 それから、一寸して、
「録さんの浪花節てどうだらう。きつとをかしいよ。」と云つた。
「お母アどこさ行つたべ――」
 源吉はやつぱり、天井ばかり見てゐた。足を立てゝゐた。片方の足の上に上げてゐた足の指先だけを時々、動かした。無心で動かしてゐた。
「妾《わし》、お祭りさ行くツて云ふのに、お母どうしたべ――本當に。」
 それでも自分は鏡から顏を離さなかつた。
「兄、お祭りさ行くべ?」
 源吉は頭をユル/\※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]はしてお文の方を見た。お文は、鏡に顏がくつつきさうになる程に突き出して、鼻の側に出てゐる何かを、一生懸命しぼり取らうとしてゐた。口を變にゆがめて。源吉は頭をもとにもどすと、それにも、何んにも云はなかつた。
「困つた。」
 今度はお文が手拭で顏をふき出した。
「春ちやんば誘つて行くんだけど、お母ア居なかつたら出られねえべよ。――兄、お祭りさ行くべ?」
 初めて顏を鏡から離して、源吉の方を見て、さう云つた。裏で、久し振りに立てたお湯に入つた後なので、お文の顏は、スベ/\と、白く、綺麗になつてゐた。源吉がお文の顏を見ると、お文は一寸顏を赤くして、「どうする?」と、工合惡さうに云つた。
 源吉は又頭をもとに返して、別な方にものを云ふやうに、初めて、
「行《え》つてもえゝ。」
 お文は奧に入つて行つた。そして着物を着かへると外へ出て行つた。
「フン、畜生!」
 源吉は立ち上つた。が、何をするためか、自分で分らなかつた。窓から外を見た。が、眞暗で、(それに内が明るいので)外はちつとも見えなかつた。臺所へ行つて、源吉は水を、二杯ほど飮んだ。爐邊に歸つてきたが、坐るのか、どうか、源吉は考へつかなかつた。源吉は、そこにしばらく、ぼんやり立つてゐた。四圍《あた》りは、靜かだつた。ランプが、時々明るくなつたり、何處かへ吸ひこまれるやうに、暗くなつたりした。裏口の側にある馬小屋の馬さへ、しつぽの音も、蹄で床をたゝく音もさせなかつた。祭りの場所も餘程離れてゐるので、何も聞えなかつた。源吉は少し、わけの分らないいらだたしさを覺えてきた。表を誰か通つて行つた。何か話してゐる。初め源吉には何か分らなかつた。
「ホラ、なア、星とんだべ。」
「そこ、穴あるど。」
「あの星なあ、粉みだいになつて、落ちでくるんだど。――たまに、どしーんツて落ちてくることもあるんだどよ。」
 相手が何か云つた。と、甘つたれるやうな、唇をとんがらした聲を出して、
「早くえがねば、踊り終るからなーア。」と、十一、二の子供が云ふのが聞えた。
「アツ――又、なア!」
「お母ア遲くてよーオ。」半分泣聲だつた。
 遠くなつて、すぐ聞えなくなつた。又、もとの靜かなのにかへつた。
 源吉は、自分の呼吸が聞えるのを知ると、その、變な靜かさが不氣味に思はれてきた。彼は坐らうと思つた。その時、鏡臺についてゐる小さい引出から、手紙が半分出てゐるのを、源吉がフト見た。お芳からの手紙だらうと思つた。
 ――貴女が札幌に出たがつてゐることは、自分のその頃のことから考へてみて、無理がない。……こつちの生活は、然し、自分が思つてゐたことゝ、まるつきり異つてゐる。……それで、貴女に、がつかりさせたくないために、あんなことを云つてやつたのだから許してくれ。――實は、こんないやな生活は、自分一人だけで澤山だと思つてゐる。
 勿論こつちでは、そこのやうに、汚い恰好をして、年中、あんな風に働く必要はない。……然し、その代り、とてもそつちなどにゐては、どうしたつて分らないやうな「恐ろしい」ことが澤山ある。……
 とにかく、貴女がどうしても、來るといふ決心をかへられないのであれば、仕方がないから、待つてゐる。……主人にも話したら人手が足りないから、丁度いゝと云つてゐる。(そして最後に)源さんには是非よろしく。
 そんな意味のことが書かれてゐた。源吉はそれを、ぼんやり又初めから讀みかへしてみた。――「源さんには是非よろしく」――讀んでから、手紙を手にもつたまゝじつとしてゐた。
 母親が歸つてきた。
「兄、何してる。行《え》け、行つてみ。――今、お文と會つた。」
 源吉は、手紙をもとの所におくと、母親には返事もしないで、外へ出た。母親は土間で、續けざまに「つかみツ鼻」をした。
「歸りに、由ば連れで來い。」と後から言葉をかけた。
 外へ出ると、ヒヤリと寒氣を感じた。空が高く晴れて、ばらまいたやうな星空だつた。源吉は、別にお祭りにも行く氣がなかつた。然し、家にゐられない氣持だつた。少し來ると、左側に高い木が五、六間並んで立つてゐた。その木の間からすぐ、石狩川の川面が見えた。星は出てゐたが、四圍は眞暗だつた。そこを、川面だけが青く光つてゐた。手前の木の幹が、それと對照して、黒くはつきり見えた。よく見ると、川に星が無數にうつつてゐた。大氣は冷え/″\としてゐた。源吉は何度も、身震ひをした。何時もお祭りの時には、神社の前よりも、若い男と女はこの河堤に集つた。源吉はお芳とそこで何囘も會つたことを思ひ出した。――源吉はイマ/\しさうに河の方へ唾をはいた。
 道が曲つてゐた。そこを曲ると、ずウと前方に、お祭りのあかりが見えた。そのあかり[#「あかり」に傍点]のところだけが、こちらからでもはつきり分つた。急に、どよめき[#「どよめき」に傍点]が聞えてきた。太鼓を打つてゐるのがきこえる。人聲の中から時々、頓狂に、ゴム風船の破れる音や、笛の音が聞えた。途中の、農家の前に、その家の年寄が立つて、お祭りの方を見てゐた。
「お晩です。」と、源吉にくらがりで言葉をかけた。
「お晩です。」源吉も云つた。
「出掛けるのげア?」
「あ――。」
 源吉が行き過ぎかけると、「ごゆつくり。」と云つた。
 お祭りの舞臺には、十位もランプをつけてゐた。その前にはござ[#「ござ」に傍点]を引いて、村の人達がそこに坐つて見てゐた。主に若い女や子供や年寄だつた。その邊は殆んど暗かつた。その後の道の兩側には、ランプをつけた屋臺のゴム風船屋などが、四つ程ならんでゐた。絶えず、足で機械をふんでゐる、綿飴屋が、割箸に、それをからませて、子供の前につき出して、何か云つてゐた。
 子供達が一つの屋臺の前に、二、三人づゝ立つてゐた。神社の後では、小さい土俵があつて、若者が相撲をとつてゐた。源吉は何處にも興味がなかつた。帶の前に兩手をさしながら、離れて、見てゐた。舞臺では手踊りだつた。足拍子をとる毎に、板がギシ/\云つた。たゞ手と足をどたん、ばたん、動かしてゐるといふ風に踊つてゐた。が、離れてゐるので、顏や着物のアラ[#「アラ」に傍点]も見えず、澤山のランプの光で踊つてゐるのが、源吉には綺麗に見えた。所々で、踊つてゐる女が、「ハツ、――ハツ」と云つたり、聲を合せて、「そいつウーは、知らなかつた――ア」と唄を入れた。
 源吉は胸が、ヂリ/\してきた。一寸見てゐるうちに、馬鹿らしくなつた。彼は風船屋の後側を通つて、神社の裏にある土俵の方へ行かうとした。相撲の太鼓が聞えてゐた。がそこへ行く途中、然し源吉は氣が變つて、もどると、神社の外へ出てしまつた。源吉が一寸來たとき、小便をしようと思つて、道端の草原の方へ寄つて行つた。と、すぐ眼の前で(然し、暗かつたので分らなかつた。)女が腰をかゞめ、一寸着物のすそをせり上げて――、用を足し終つたところだつた。源吉は外のことに氣をとられてゐた。そこを不意にやられた。二人は立ちすくんだやうに、ギヨツとした、彼は突嗟に變な衝動を感じた。自分でも、どうしてか分らなかつた。彼は、素早く手を延ばした。と、逃げ腰になつた女の帶に手がかゝつた。源吉は咽喉が急にグツとつまつた。女は、聲をたてずに、闇の中でさからつた。が、力がちがつてゐた。すぐ女は源吉の胸のそばに寄せられた。女は帶にかけてゐる源吉の手に、爪をたてようとした。「馬鹿!」彼は息聲で云ふと、思ひツ切り、ギユツと女の身體を抱きしめてしまつた。女は、ふくらんでゐる乳房を抑へつけられてゐるので苦しがつた。日本髮につけてゐる新らしい油の匂ひが、源吉の鼻にムツと來た。源吉の心臟も、自分で分るほど、ドギン/\早くうつた。女のもはつきり分つた。女は、源吉に抑へられてゐながら、身體をもがいた。その厚味のある肉體《からだ》の、動きを直接《ぢか》に、自分の身體に源吉が感じた。源吉は、女を、今度は何の雜作もなく抱きあげると、そこから、畑に續いてゐる暗い小道へ出た。女は初め聲を出しさうに身體をふつた。滅茶苦茶に足で源吉をけつたり、胸をひつかいたりした。が、すぐ、何故かじつとした。そして、源吉のはだけられた胸に顏をあてた。暑い呼氣が源吉の胸を撫でた。
 源吉は、息をきらしながら、三町も歩いた。それから、どん/\畑の中に入つて行つた。唐黍の切株が澤山殘つてゐて、源吉は何度もそれで足の皮をむいた。それにくぼみに足を落して、よろめいた。が、惡鬼のやうな恰好になつた源吉は、かまはずに、無茶苦茶に歩いた。女は思ひ出したやうに、又劇しく抵抗した。然し抵抗すればする程源吉は元氣づいた。そして身體中が、ワク[#「ワク」に傍点]/\と震ひ上つてくるやうに感じた。

      四

 又雨がやつてきた。日がだん/\薄暗くなり、寒さうな雲が垂れ下つてきて、霰が交つたりした。今度こそ、本當に冬がくる、さう皆が思つた。朝起きてみると水のたまつた溝の表面に氷が張つてゐた。
 百姓達は冬圍ひが終つてしまふと、草|家《や》の中にもぐりこんで、土間にむしろ[#「むしろ」に傍点]を敷いて、繩を編んだり、草鞋を造つた。一年の間、畑に出て、腰をまげて土にへばりつきながら働き通して、然し、それでもまだ百姓には足りなかつた。娘達は、その出來たものや豆類などを背負つて停車場のある町に出掛けて行つた。百姓達は、誰のためにも分らずに、色んなものを作つた。が、その半分以上のものは一つ殘らず持つて行かれてしまつた。小作人は地主の小作料に、自作農は拓殖銀行の年賦の拂込金にそれが成りあがつてしまつた。その上に肥料店と農具店があつた。米をつくり、豆をつくり、唐黍をつくり、ナスビを作つた百姓は、毎日干した菜葉と、芋しか食ふものがなかつた。それより食へなかつた。その上
前へ 次へ
全14ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング