な、そして柔味のあるものに頭を打つつけた。
「あツ!」彼はものも云はずにいきなり横つ面をなぐられた人のやうに、棒立ちになつた。提灯を土間の方ばかり照らしてゐたので、空間の半分から上は分らなかつた。三人は一かたまりになつたまゝ誰かに力一杯押しもどされたやうに、戸の外へよろ/\ツと出た。
 兄と嫂は近所の家に息を切らして走つた。そして又その家の人から他の家に知らしてもらつた。一寸して、十二、三人の村の人が集つてきた。
 源吉も來てゐた。皆口々に何か云ひながら、提灯を澤山つけて納屋に入つて行つた。
 お芳は入口の少し入つた所に、首を縊つて、下つてゐた。さつき父親が打ち當つたゝめか、ぶら下つてゐる身體が、その充分の重みをもつて空中でゆるく、その垂直の軸のまはりを、右へ左へと眼につかない程の圓轉を描いて搖れてゐた。
 各自口を抑へ、提灯だけを差しのべて見てゐた百姓達に、そのかすかに動いてゐるといふ事が不氣味さを誘つた。お芳の顏色は紫色になつて、變にゆがんでゐた。身體には藁くづが澤山ついてゐた。
 後で家の中をさがしたとき、前に書いて用意をして置いたらしい遺書が二通出てきた。一つは親、一つは源吉に宛てたものだつた。あとはいくら探がしてもない事は意外であつた。お芳は自分の關係した大學生には遺書をのこして行つてゐなかつた。それをきいたとき、源吉はぐいと心を何かに握られたやうに思つた。
 ――自分は金持を憎んで、憎んで、憎んで死ぬ。……自分は生きてゐて、その金持らに、飽きる程復讐しなければ死に切れない、さう思つたこともあつた。そして、それが本當だ、と思ふ。が、自分は女であり、(それだけなら差支へないが)女の中で一番やくざな、裏切りものである。それが出來さうもない。自分は、貴方と一緒になつてゐたら、どんなに幸福であつたか、と、今更自分のあやまつた、汚い根性を責めてゐる。――そして、最後に、自分は、札幌の大學生には、ツバをひつかけて死ぬ。と書いてあつた。
 お芳も[#「お芳も」に傍点]矢張り俺達と同じだつたんだ、――だまされるのは、何時だつて、外れツこなく俺達ばかりだ! ――源吉はさう思ふと、身體中がヂリ/\と興奮してくるのを覺えた。

      十

 源吉はいよ[#「いよ」に傍点]/\やらう、と思つた。それは警察の事件と、今度のお芳の縊死で、前にさうと考へてゐたのより、もつと根強いものになつてゐた。百姓達はいくら警察の拷問で、ビク/\してゐると云つても、如何に彼等が自分達を苦しめるものであるか、といふことが、骨の心《しん》までもしみ入つてゐた。それは間違ひなくさうだつた。だから、意志の強いものが、嫌應なしに、グン/\――グン/\その氣持をつツついて行つたら、今度百姓達は自分達の命である畑のことで、極めて不安な立場にも置かれてゐるのだから、又――そして而も前よりはモツト強く立ち上ることが出來る可能性があるやうに思はれた。「幹部」が居なくなつた今、初め源吉は、自分がそれを引きうけて、やつてみようと思つたのだつた。それがうまく[#「うまく」に傍点]行けば、それこそ素晴しいものだつた。さうなれば、源吉は、自分なら、あんなヘマ[#「ヘマ」に傍点]な、そしてあんな生ヌルイ[#「ヌルイ」に傍点]ことはしないぞ、と思つた。氣持は、この前のがきまる時からだつた。地主の家を燒打ちでもして、他人の血で肥つたまるで虱のやうな――いや、「虱そのまゝ」の彼奴等を、なぶり殺してやる!
 源吉はそれを――さうならせる迄、然し、待つてゐられなかつた。勿論さうなれば、自分一人でやるよりは、もつときゝめ[#「きゝめ」に傍点]があることは分つてゐた。が、この場合、源吉の氣持としては、さうする事さへはがゆ[#「はがゆ」に傍点]かつた。嚴密に云つて、源吉は、どうなる、など、さう先のことは考へなかつた。それよりも亦、自分のしようと思つてゐることさへ、出來るものか、どうかさへ分らずに、やつてのけようとしてゐたのだ。それは、この前の、鮭の密漁をした時、皆が二ヶ月も三ヶ月も魚を食へもせずに、モグ/\やつてゐたとき、源吉はそんなのにお構ひなしにさつさと自分でやつてのけた、それと同じだつた。「親父とお芳の遺言と、俺の考へ――この三つでやるんだ。」
 然し、一方、源吉は自分のすることが、さう無駄であるとは思はなかつた。かへつて、自分の思ひ切つたことが、闇にゐる牛のやうにのろい[#「のろい」に傍点]百姓にキツト[#「キツト」に傍点]何か、グアンとやるだらう、そしたら、それが、口火のやうになつて、皆が案外かへつて[#「かへつて」に傍点]手ツ取早く、一緒になつて、ヤレツ、ヤレツ※[#感嘆符二つ、1−8−75] と鍬と鎌をもつて立ち上る! さうなれば、まんまと、畑は俺達百姓の手に、もぎ取れるやうになるかも知れないぞ。――源吉はそんな事まで想像した。然し、何より、憎い! 畜生、待つてゐやがれツ、源吉はまだすつかりハレ[#「ハレ」に傍点]の引かない痛みの殘つてゐる頬や身體をさすりながら、叫んだ。
 その晩、源吉は、ドロツプスの罐程の石油罐に石油をつめ、それを、ボロ/\になつた座布團で包んで、外へ出た。母親には、今度皮はぎに朝里の山に入ることゝ、春の鰊場のことで、石田へ相談に行つて來る、と云つて置いた。外は星もない暗い夜だつた。雪道がカン/\に凍つてゐた。源吉は身體が、さうせまいと思つても、小刻みに顫へてゐた。ひよいとすると、獨りで齒がカチ/\と打ち當つてなつた。源吉は道を急いだ。然し、歩いてゐるといふことが、水落ち[#「水落ち」に傍点]のあたりが變にくすぐつたくなつて、じつとしてゐられない程齒がゆく思はれた。しまひに源吉は小走りに走り出してしまつた。凍つてゐた空氣が兩方に分れて、後へ流れて行つた。もうどつちを向いても何んにもない處に出てゐた。何時のまにか、源吉は普通の速さにかへつてゐた。振りかへつてみると、灯りが二つ三つ暗い原ツぱにチカ/\今にも消えさうに、頼りなく光つて見えた。源吉は又ひよいと思ひついたやうに、走り出した。呼吸がはげしくなると冷たい空氣で、鼻穴がキン/\してきた。一寸すると源吉は又歩いてゐた。
 夜道では誰にも會はなかつた。
「停車場のある町」の電燈の光が、ずウと前方の黒い幕のやうな闇に文字通り點々と見える所まで來たとき、フト源吉は、立ち止つた。何かにグイと立ち向ふやうな氣持の張り[#「張り」に傍点]を感じた。
 町に入ると、源吉は用心深く、本通りでなく、家の裏、裏と歩いて行つた。町の通りは誰も、もう歩いてゐるものがなかつた。大抵の家は、電燈を消してゐた。雪がつもつて馬の背のやうになつた狹いデコボコ道を、源吉は注意深く歩いて行つた。時々、戸がガラ/\ツと開いた。それが靜まり返つた平野の町に、思つたより高く響きかへつた。源吉は何度もその音でギヨツとした。

 誰か、大きな聲で叫びながら、町の通りを、周章てゝ、走つて行つた。二、三軒の家の表戸がガラ/\と開いた。
「何んだべ。」と、隣り同志が、丹前の前を抑へながら、きゝ合つた。急に町がやかましくなつた。と思ふと、
「火事だ! 火事だ!」と叫びながら、停車場の方へ、二、三人走つて行つた。
 表に立つてゐた町の人達が一齊に、そつちを見た。暗い空が、心持明るかつた。が、瞬き一つする間に、高さが一丈もある火の柱がフキ[#「フキ」に傍点]上つた。バチ/\と燒けあがる火の音が聞えてきた。見てゐるうちに、町中の、家と云はず、木と云はず、それ等の片側だけが、搖めく光をあびて、眞赤になつて、明暗がくつきりとついた。町を走つてゆく人の殺氣だつた顏が一つ一つ、赤インキをブチかけたやうに見えた。
 町中の人が皆家から外へ飛び出してゐた。女や子供は、齒をガタ/\いはせて、互に肩を合はせながら立つて見てゐた。
「何處だらう。」
「さあ。――停車場だらうか。」
「停車場なら、方角が異ふよ。もうちよつと右寄りだ。」
「何處だべ。」向側の家の人に言葉をかけた。
「地主でないかな。」
「んだかも、知れない。――」
「まあ/\。」
 走つてゆく人に、きくと、
「地主だ、地主だ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と、大聲でどなつて行つた。
「地主だら放つておけや。」誰かゞ、ひくい聲で云つた。
「たゝられたんだ。」
「んだべよ。」
「――放け火でねえか。」思はず大聲で云つたものがあつた。
 一寸だまつた。
「さあ、大變なことになるべ。」
 急に、皆の頭の上で、毀れたやうな音をたてゝ、半鐘がすりばんでなり出した。それが空中に反響して、不氣味な凄味で、人達の背中に寒氣を起さした。
 地主の家は停車場からは離れてゐた。が、その邊は、ヂリ/\とこげる程熱くなつて、白い眩光を發しながら燃えてゐるので、消防の人や、立つて見てゐる人達の顏の皺一本、ひげ一本までもはつきり見分けがついた。
 汽車が構内に入つてくる度に、警笛を長くならした。それが何か生物の不吉な斷末魔の悲鳴のやうに聞えた。地主の家は、立派な金をかけた建物なために、俗つぽい、腐れかゝつた町の家などゝ軒を並べるのを潔ぎよしとしないとあつて、とくに町並から離して建てられてあるために、――それに風もなかつたので、他に火が延びるといふ心配はなかつた。
 消防をしてゐる人達は、あまり火足が早かつたので、家のものは全部燒け死んだんではないか、――誰も出た形跡がない、と云つてゐた。
 この前、北濱村の小作人から取上げた雜穀などの、ぎつしりつまつてゐた倉が燒け落ちるとき、皆は思はず、聲をあげた。物凄い音を立てゝ、崩れ落ちると、そこからムク/\と、火の子と惡魔のやうな煙が太ぶとしく空へ渦をまいて、上つた。
 凍つた川から引いてくる水ではどうにもならなかつた。消防の人や青年團が、怒鳴つたりしては、あつちこつち、提灯をふりかざして走り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてゐた。
「もう半分以上も燒けて、どうにもならなくなつてしまつた頃、家の中から、まるで聞いたゞけでも、身震ひするやうな、それア、それア――何んとも云はれないやうな叫び聲がきこえてゐたつて! ――その人、耳に殘つて耳に殘つて困るつて云つてたの。鷄でもしめ殺されるやうな、のどから血を出しながらしぼつてるつて聲だつて。」
 女の人が、ヒソ/\並んで立つてゐた知合ひらしい人にささやいてゐた。
「たゝられたんだ、きつと。」
 相手はもつと低い聲でさう云つた。それから二人ともだまつた。

 源吉は誰にも氣付かれずに、防雪林が鐵道沿線に添つて並んでゐるところまで、走つてきた。防雪林の片側が火事の光を反射して明るくなつてゐた。振りかへつてみると、空一杯が赤く染つてゐた。現場の手前の家やその屋根の上に立つて、何やら手を振つてゐる人や、電柱などが一つ一つ黒く、はつきり見えた。そこで騷いでゐる人達の叫び聲などが、何かの拍子に、手にとるやうに、間近かに聞えたりした。半鐘は、プウーン、プウーン、とかすかに、うなつてゐるやうに聞えた。
「まだ足りねえや。」
 源吉は獨言をすると、今度はしつかりした足取りで、暗い石狩平野の雪道を歩き出した。
「まだ足りねえぞ、畜生!」
[#地から2字上げ](一九二八・四・二六)



底本:「防雪林・不在地主」岩波文庫、岩波書店
   1953(昭和28)年6月25日第1刷発行
   1959(昭和34)年2月15日第5刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本では「それから、勝が裏口にまはつた。〜瞬間、なつたのを感じた。」の行が天付きになっています。
※「銭」と「錢」の混在は底本通りです。
入力:山本洋一
校正:林 幸雄、小林繁雄
2006年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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