樽以来、苦闘に苦闘を重ねているが、留守宅の細君等も安閑として日を過ごすことが出来ない。「女は女同志」奥様にお願いをしようというので、家に老人や子供を残し、村を後に出樽した五名の妻君はゴワゴワの木綿着物に澱粉靴をはき、毛布の赤いキャハンを出して、幼児を背に……云々。
健は「連絡委員」と入り代って、女房達とは一足遅れて、小樽へ出て来た。
┌─────────────────────────┐
│ どの面さげて出て来た! │
│ 「畜生奴」 │
│ 散々罵られたが奥様に面会せぬうちは帰らぬという │
│ 女房 │
└─────────────────────────┘
(小樽新聞) 悲痛な決心のもとに来樽した妻君達は、直ちに岸野宅におもむき夫人に面会を求めたが、病気の故で、遂に面会出来ないとの返事に対し、妻君達は、家の何処でもいいから寝かせて頂いて毎日でも待って居ります、と云ったが、一応争議団本部に引き上げることになった。子供達は久し振りで父親の顔を見たので、父さん、父さんと呼んで、抱かるるなど、一種の劇的場面があった。
妻君連は更に二十一日岸野氏宅に至り面会を求めるところがあった。
婦人争議団の一人伴君の女房語る。――私達は岸野様の奥様に面会して、農場を開くに苦心した当時の有様を詳しくお話し、そして今どんなに惨めな暮しをしているか申上げたいと思ったのです。ところが、岸野の御主人様は私共に「小樽に面白おかしく出て来たのか?――どの面さげて小樽に出てきたんだ。」とか、「真人間になって出直して来い。」とか云われました。――真人間になれッて、どんな事かチットモ私共には分りません。
然し、女なら女同志、この苦しいことが分って頂けると思って、ようやく奥様にお会い出来て、お話しました。どうでしょう! ところが!
「お前達の顔も見たくない!」いきなり大声で叱りつけられました。
これは意外でした。――私共は家を出るとき、皆さんにキット奥様の温いお言葉を頂いて帰ると云って来たのでした。
「お前等のために、この何十日ッてもの夜も満足に眠れたことがないんだ。――この恩知らず奴!」
私共は申しました。「いいえ奥様、貴女は夜もおちおち眠れないと仰言《おっしゃ》いましたが、それは然しただ眠れないだけのことでしょう。然し私共は一日一日が生きて行けるか、行けないかのことなんです。命がけのことなんです。」
だが、もう決してお前達には会わないし、云うこともきいてやらないから勝手にせ! とうとうそう云ってしまいました。――涙ながらに語った。
かくして岸野小作争議は、「社会的」に益※[#二の字点、1−2−22]深刻を極めて行くものの如くである。
[#改段]
十四
「解散! 解散※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「演説会」が開かれた。健は組合の人や阿部、伴などと一緒に、劇場の裏口から入った。入口で巡査から一々懐や袂を調べられた。
「よし。」そう云って背中を押す。
「何が、よしだ!」――健にはグッと来た。
「御苦労さんだな!」――組合員は小馬鹿にした調子を無遠慮にタタキつけて、ドンドン入って行く。
二階から表を見下すと、アーク燈のまばゆい氷のような光の下で、雪の広場はチカチカと凍てついていた。顎紐をかけた警官が、物々しく一列に延びて、入り損った聴衆を制止していた。丁度真下に、帽子の丸い上だけを見せて、点々と動いている黒い服が、クッキリ雪の広場に見えた。――所々に小競合《こぜりあい》が起って、そこだけが急に騒ぎ出して、群衆がハミ出してくる。警官が剣をおさえながら、そこへバラバラと走って行く。
二千人近くのものが帰りもしないで、ジリジリしていた。
「立ち止っちゃいかん。」
「固まると、いかん。」
「こら、こら!」
警官があちこちで同じことを繰りかえしていた。
群衆のしゃべったり、怒鳴り散らしたりしている声は、一かたまりに溶け合って聞える。時々鋭く際立ってそのなかから響くことがある。
――健は「有難かった!」有難い! 有難い! わけもなくその言葉が繰りかえされた。
寒気《しばれ》ていた。広場はギュンギュンなって――皆は絶えず足ぶみ[#「ぶみ」に傍点]をしていた。下駄の歯の下で、もの[#「もの」に傍点]の割れるような音をたてた。
演説会は最初から殺気立っていた。
「横暴なる彼等官憲……」
「中止!」
直ぐ入り代る。
「資本家の番犬……」
「中止ッ!」
――二分と話せない。出るもの、出るもの中止を喰った。
――阿部も伴も演説が上手《うま》くなっていた。聴衆は阿部や伴のゴツゴツした一言一言に底から揺り動かされているではないか! 健は睡尻に[#「睡尻に」はママ]ジリジリと涙がせまってくる。いけない、と思って眼を見張ると、会場が海底ででもあるようにボヤけてしまう。
伴の女房も演壇に立った。――日焼けした、ひッつめの百姓の女が壇に上ってくると、もうそれだけで拍手が割れるように起った。そしてすぐ抑えられたように静まった。――聴衆は最初の一言を聞き落すまいとしている。
伴の女房は興奮から泣き出していた。――泣き声を出すまいとして、抑え抑えて云う言葉が皆の胸をえぐった。――あち、こちで鼻をかんでいる。
「……これでも私達の云うことは無理でしょうか?――然し岸野さん[#「さん」に傍点]は畜生よりも劣ると云われるのです。」
拍手が「アンコール」を呼ぶように、何時迄も続いた。誰か何か声を張りあげていた。
「こんな事はない!」
組合の人が健の肩をたたいて、すぐ又走って行った。――「こんな事はない!」
次に出た労働組合の武藤は「三言」しゃべった。「中止!」そして直ぐ「検束!」
警官が長靴をドカッドカッとさせて、演壇に駆け上った。素早く武藤は演壇を楯に向い合うと、組合員が総立ちになっている中へ飛びこんでしまった。人の渦がそこでもみ[#「もみ」に傍点]合った。聴衆も総立ちになった。――武藤は見えなくなっていた。
「解散! 解散※[#感嘆符二つ、1−8−75]」――高等主任が甲高く叫んだ。
聴衆の雪崩は一度に入口へ押し縮まって行った。健がもまれながら外へ出たとき、武藤は七、八人の警官に抑えられて、橇(検束用)へ芋俵のように仰向けに倒され、そのままグルグルと細引で、俵掛けのように橇にしばりつけられてしまっていた。仰向けのまま、巡査に罵声を投げつけている。――見ている間に橇が引かれて行ってしまった。百人位一固まりになった労働者が「武藤奪還」のために警官達と競合いながら、橇の後を追った。
会場の前には、入れなかった群衆がまだ立っていた。それと出てきたものとが一緒になると、喊声をあげた。そして、道幅だけの真黒い流れになって――警察署の方へ皆が歩き出した。組合のものが、その流れの「音頭」をとっていることを健は知った。
健は人を後から押し分け、――よろめき、打つかり、前へ、前へと突き進んだ。――もう、どんな事も何んでもなかった!
知らないうちに、右手で拳がぎっしり握りしめられていた。
[#改段]
十五
事態が変ってきた
事態が変ってきた。
秘密に持たれていた「地主協議会」のうちから、今では殆んど社会全体と云っていい反感が地主に対して起きている時、これをこのまま何処までも押し通して行ったら、「大変なことになる」ということを考える地主がだんだん出て来た。――それ等の人達が岸野に「妥協」をすすめた。
岸野の「工場」にストライキが起りそうになっていた。――七之助がそのために必死に働いていた。組合員がモグリ込んでいた。千名から居る職工が怠業に入りかけたということが、岸野を充分に打ちのめしてしまった。
争議団では更にこの争議を「社会的」なものにするために、学校に行っている小作人の子供を一人残らず盟休させて、小樽へ来させる策をたてた。それが新聞に出た。――体面を重んじるH町と小樽の教育会が動き出した。岸野に「かかる不祥事を未然にふせがれるように」懇願した。
労働組合に所属しているもののいる工場や沖、陸の仲仕などが「同情罷業」をしそうな様子がありありと見えてきた。
――今迄暗に力添えをしていた他の資本家が、岸野に「何んとかしてくれなければ」と云い出してきた。
事態が急に変ってきた。
調停委員が立てられた。市会議員五名、警察署長、弁護士、労働組合代表、農民組合代表、小作人代表、有力新聞記者、岸野側。――物別れを繰りかえしながら、三度、四度と会見を続けた。
そして出樽以来三十七日間の苦闘によって、地主岸野は屈服した。――時、一九二七年十二月二十三日、午後九時四十八分。
その日の「ビラ」は組合員の手から都会の労働者に、――全道の農民組合の手から小作人に――配られた。
┌─────────────────────────┐
│ …………………………………………………………… │
│ 小作人は今や昔日の生存権なき農奴より、戦闘的労 │
│ 働者階級の真実の「同盟者」たり得ることを立証し │
│ た。 │
│ 封建的搾取と闘うために! │
│ 耕作権確立のために! │
│ 日本農民組合に加入せよ! │
│ 労働者と農民は手を結べ! │
│ 「労」「農」提携争議大勝利、万歳※ │
└─────────────────────────┘
[#罫内の「※」は「※[#感嘆符二つ、1−8−75]」]
「もう五つ――」
争議団は小樽の労働者達に見送られて、――一ヵ月以上の「命がけ」の(伴は、あとで思い出すと、背中がゾッとする、とよく云っていた。――よくまアやってきたもんだ。)闘争の地を後にした。
あと九ツでH停車場だ!――もう七ツだ――もう五ツ――四ツ――三ツ、と、なると皆は云いようのない気持に抑えられた。近くなればなる程、小作人達はムッ[#「ムッ」に傍点]つり黙りこんできた。
――伴の厚い、大きな肩が急に激しく揺れた。と、ワッと泣き出してしまった。雪焼けした赭黒い顔に、長い間そらなかった鬚が一面にのびていた。――伴は自分の肱に顔をあてた。そして声をかみ殺した。
嬉しかった! ただ嬉しい。それをどうすればいいか分らないのだ。
女達も思わず前掛で顔を覆ってしまった。
[#改段]
十六
「毎日毎日、一月も考えた。」
「ねえ、健ちゃ……」
節は余程云い難いことらしかった。
「……お父な、嫁にでも直く行《え》ぐんでなかったら、都会《まち》さ稼ぎに出れッてるんだども……!」
――とうとうそう云った。
「俺……俺一緒にならない。」――健は苦しかった。
「…………※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
暗かったが、節の顔が瞬間化石したように硬わばったことを健は感じた。
「……考えることもあるんだ、俺小樽から帰ってから毎日毎日、一月《ひとつき》も考えた。……考えたあげく、とうとう決めることにしたんだ……俺は、旭川さ出る積りだよ。」
「……何しに?」
「うん?」
「何しによ?」
「後で分るよ……」
「…………」
――節は健のうしろにまわしている手を、何時の間にか離していた。
健は固い決心で旭川に出て行った。キヌの妹が見送ってきてくれた。
彼は、そして「農民組合」で働き出した。
[#地から1字上げ]――一九二九・九・二九――
底本:「日本プロレタリア文学集・26 小林多喜二集(一)」新日本出版社
1987(昭和62)年12月25日初版
初出:一〜十一、十六「中央公論」
1929(昭和4)年11月号
十二〜十五(「戦い」の表題で。)「戦記」
1929(昭和4)年12
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