自分の室から女給を呼ぶ。そして肩をもませた。皆は自分に順番のくるのをどうすることも出来ず、ただ待っているばかりだ。嫌なら出て行け、然し出て行ける「金の持っている」女なら、最初からそんな処に来る筈がない。みんな家の暮しのために、村から出てきた、云わば俺達と同じ仲間なのだ。――中には、落着いて髪を直しながら、ドアーから出てくるものもある。然し大抵外へ出るなり、ワッと泣き出してしまう。見ていられないそうだ。岸野は来る度にキマッてそうした。
岸野が一体[#「一体」に丸傍点]どんな事をしているのか、百姓達は、ちっとも知っていない。――ここに来て、それが始めて分った。阿部さんに紹介されて来た人達は、ここで労働問題などを研究している。俺は何も分らなかったが、すすめられて出ている。出てよかった。俺は色々のことをそこで知った。
百姓のことでは、特別に皆から聞いた。百姓というものは、今のこの世の中では何処迄行っても、――行けば行くほど惨めになるものだ、という事を知った。
仮りに百姓が自分の田畑を持っていて、小作料を払うことも要らず、必要なものは全部自分の家でこしらえ、物を売ることも、買うこともなかったら、それは幸福かも知れない。――然しこんな処が世界の何処を探がしたって、無いこと位は分りきったことだ。
都会にいればよく分ることだが、大工場では生活に必要な品物をドンドン作り出している。それが大洪水のように農村を目がけて、その隅々も洩らさずに流れ込んで行く。そうなって来れば、もう土間にランプを下して、縄を編んだり、着物を織ったりしていたって間に合わなくなってしまう。追ッ付くものでない。――北海道では何処だって、出稼ぎは別にして、冬の内職などするものがなくなってしまっているではないか。
百姓は、だからどんなものでも買わなければならなくなる[#「買わなければならなくなる」に傍点]。――で、要るものは金だ。百姓が金を手に入れる道はたった一つしかない。出来上ったものを売ることだ。――ところが、世界中で一番もの[#「もの」に傍点]を下手糞に売るものは百姓だ。
健ちゃも知っているだろうが、村で都会の商品市場がどう変化しているか、又こう変化しそうだから売るとか、売らないとか、秋にそんなことを考えて売ったりする百姓が一人でもいるか。どうして、どうしてだ。
三年前に、青豌豆の値が天井知らずに飛び上ったことがある。知ってるな。和蘭《オランダ》が不作のために、倫敦《ロンドン》から大口の注文があったからだ、とあの時皆は云っていたさ。ところが、今度小樽へ出て聞いてみると、そうでないんだ。その事もあるにはあった、が小樽の大問屋で、大貿易商である※[#「┐<辰」、屋号を示す記号、299−下−4]が、高く売り飛ばすために、買い集めてしまってから、そう宣伝したそうだ。――山の方の百姓はそんな事は知るもんでない。
次の年、どの百姓も皆青豌豆、青豌豆と青豌豆を作ったものだ。そして一年の丹精をして、大成金を夢見て、さて秋が来たときどうだ! ガラ落ち!――和蘭が大豊作だと云う。然し本当はそれも七分の嘘。落すにいいだけ落して、安く安く買い集めたのは大問屋だった。そのカラクリは仲々分るものでない。――首を縊った百姓、夜逃げした百姓が何人あの年いたか。都会が凡ての支配権を握っているのだ。
こういう世界へ百姓が首をつん出して、うまく行く筈がない。山の中にいて、市場の景況もあったものでない。工場などでは、昨日[#「昨日」に丸傍点]原料を仕入れば、明日[#「明日」に丸傍点]にはもう売り出せるように品物が出来上る。それが一年中切れ間もなしに続けられるし、売れ工合によっては、自由に出来高の加減もその日その日のうちに出来る。ところが百姓はどうだ。――原料を一回仕入れて、その第一回目の品物が出来上る迄に一年[#「一年」に丸傍点]! この融通のきかなさ[#「この融通のきかなさ」に傍点]! これだけでも分る。
工場に入って驚いたけれども「機械」だ。仮りに一人の男が毎日毎晩働いて、一年もかかる位の分量の仕事を一日位でしてしまう。――そんな機械でばかり工場が出来上っている。俺達はただ機械のそばについていて、手だけ動かしていればそれでいい。ところが、その眼で農村を見れば、まるで居眠りでもしたくなる程のんびりと昔風でないか!――追い付けるものでない。
都会にいる地主でも、そんなワケで、地主だけではとても眼まぐるしいこの社会に、太刀打ちが出来て行かない。地主でも。で、百姓からは出来るだけ沢山の小作料を搾ればいいという風に、放ッたらかして置いて、ドンドン別な仕事をやっている。――丁度、岸野のようにだ。だから、例えて云えば「人魚[#「人魚」に傍点]」のようなものだろう。
上半分だけは「地主」だが、下の半分
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