ないので、「残念ながら、ドンツキは出来ない。」
「若しか岸野ばしたら、どうだべ。」――一人がいたずらに云った。
「岸野か、そうだな……。」
「そんな手荒なこと、なんぼ岸野さんだってな……。」
荒川はだまってきいていた。
「あれだら、仲々我ん張るど。」
「あの面《つら》だものな!」
「そんな事……馬鹿だな……。」
「なんぼ岸野だって、こっちは兎に角人数は多いんだからな。」
「ハハハハハ、今度いくらでも実験できる時来るさ。」
荒川は愉快に笑った。
荒川は何時でも警察に尾行《あと》をつけられたり、何回も刑務所へブチ込まれたりしながら、この方の運動をしていた。――健もそれは聞いていた。然し、どうしてこんなに呑気そうに、愉快でいることが出来るんだろう。――健にはそれは分らなかった。
ロシア革命前と後とで、ロシアの百姓はどういう風に変ったか、それが百姓本来の要求にどんなにピッたり合ったか。――そういう話をきくと、自分達が実際にやっている生活のことで、しかも誰もがそれと気付かなかったことが、ハッキリしてきた。
次の朝は早いし、家が遠いので、健は中座した。
「小便たまった。」
阿部がついでに外へ立った。
「阿部さん、俺も一生ケン命やるから、何か用でも出来たら、させてけないか。」
健は興奮を抑え、抑え、阿部の顔を見ないで云った。――たったそれだけのことで、健は言葉が顫えそうでならなかった。
「そうか、そうか! 頼む!」
上気した頬に、冷えた夜気が心よかった。――秋だった。歩きながら、彼は何か声を出したかった。
「待ってろ、待ってろ、俺だって!」
何度も独言した。
やもめの「勝」
道路を折れると、やもめの「勝」の家だった。長い雨風で、ボロボロに腐れ切ったヨロヨロの藁小屋で、風が強いと危いので、丸太二三本を家の後へ支え棒にしていた。――四五年前に夫に死なれてから、一人で稼いでいた。それから一年に一人ずつ、お互いに少しも顔の似ていない子供を三人生んだ。誰が父親か分らなかった。――色々な男がこっそり勝の家へやってきた。勝はそれで暮しを立てていた。――村の娘等は少し年頃になると、(例えばキヌなどのように)札幌、小樽へ出て行ってしまう。自分の母親達のように、泥まみれになって、割の悪い百姓仕事をし、年を老《と》る気にはなれない。それで村の若い男は幾つになっても、仲々嫁は貰えなかった。と云って、又金を懐にしてワザワザH町まで出掛けて行くことの出来ないものは、日が暮れると、勝のところへやってきた。
ひょいと見ると、勝の家から誰か男が出てきた。出口の幅だけの光を身体の半面にうけて、それがこっちから見えた。――武田だ! 偉いこと云って!――健は武田のそういう処を見たのが愉快でたまらなかった。
今に見ろ、畜生!
[#改段]
七
七之助の手紙
畑から帰ってくると、母親がプリプリ怒っている。
「見れでよ。切手不足だって、無《ね》え金ば六銭もふんだくられた。」
手紙は七之助から来ていた。――健は泥足も洗わずに、炉辺へずッて行って、横になりながら封を切った。
朝五時に起きて、六時には工場に行っている。油でヒンやりする、形の無くなった帽子をかぶり、背中を円るくし、弁当をブラ下げて出掛けて行く。俺の前や後にも、やっぱりそういう連中が元気のない恰好で急いで行く。――工場では、ボヤボヤしていられない。朝の六時から晩の五時迄、弓の弦のように心を張っていなければならない。
俺が来てから、仲間の若い男が二人機械の中にペロペロとのまれてしまった。ローラーからは、人間が大巾の雑巾のような挽き肉になって出てきた。一人の方の女房は、それから淫売をやって、子供を育てているという評判をきいた。もう一人は青森の小作の三男だそうだ。背がゾッとする。
工場は大きな機械の廻る音で、グヮングヮンしている。始めの一週間は家へ帰っても、耳も頭もグヮングヮンして、身体がユキユキし、新聞一枚読めなかったものだ。――俺はこのまま馬鹿になってしまうんではないか、と思った。今は慣れた。
此前キヌと会った。キヌは岸野の経営している「ホテル」にいる。――岸野は雑穀、海産、肥料問屋、ホテル、××工場、精米株式会社を経営し、取引所会員、拓殖銀行其他の株主、商業会議所議員、市会議員をやっている。他に何千町歩という農場や牧場も持っているわけだ。
岸野が売り残して年を越したために、検査に落ちて、どうにもならなくなった鰊粕を、俺達の農場の方へ送り込んで寄こして、それを検査品と同じ値段で売っていることは、知っている筈だ。然しあの岸野にしたら、こんな事ものの数でもない。
キヌが云っていたが、ホテルには二十人近く女給がいる。――岸野が一週間に二度位廻って行くと、必ず
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