んでいる「市街地」に出る。――由三は坊主頭と両肩をジュク[#「ジュク」に傍点]ジュクに雨に濡らしたまま走った。
 軒下に子供が三、四人集って、「ドンドン」をやっていた。由三はランプの台を持ったまま側へ寄って行った。
┌「ドンドン、ドン!」
└「ドンドン、ドン!」
「中佐か?――勝ったど! 少将だも。」
 相手は舌で上唇を嘗めながら、「糞!」と云った。
┌「ドンドン――ドン!」
└「ドンドン、アッ一寸待ってけれ。」――何か思って、クルリと後向きになると、自分の札の順を直した。
┌「ドンドンドン!」
└「ドンドンドン!」
「中将!」
「元帥だ!――どうだ!」いきなり手と足を万歳させた。
「あ、お前、中将取られたのか?……」――側の者が負けたものの手元をのぞき込んだ。「あと何んと何に持ってる?」
「黙ってれでえ!……負けるもんか。」
「お、由、組さ入らねえか?」――勝った方が云った。
「入れでやるど、ええべよ。」
 由三はやりたかった。然し今迄一度だって「ドンドン」を買って貰ったことがなかった。――由三はだまっていた。
「無えのか?」
「由どこの姉、こんだ札幌さ行ぐってな。」
 一人が軒下から、雨の降っている道へ向けて、前を腹迄位まくって小便をしていた。
「誰云った?」
「誰でもよ。んで、白首《ごけ》になるッてな!」
「んか、白首にか!」
「白首か! そうか!」――皆はやし立てた。
 由三はそれが何のことかハッキリ分らなかった。分らないが、いきなりヒネられでもした後のように、顔中がカッと逆上《のぼ》せてきた。
「夕焼け小焼けに日が暮れて……」――女の子が三、四人声を張り上げて歌っているのが、遠くに聞えていた。
 由三は急にワッ[#「ワッ」に傍点]と泣き出した。
「泣くな、え、このメソ[#「メソ」に傍点]!」
 グイ[#「グイ」に傍点]と押されて、ランプの台を落してしまった。少し残っていた石油が、雨に濡れた地面にチリチリと紫色の波紋をつくって広がった。――皆は気をのまれて、だまった。
「あーあ、俺でもないや、俺でもないや。」――少し後ずさりして云い出した。
「俺でもないや。」
「うえ、お前《め》えだど。――お前えでないか!」
「俺でもないや。」
「俺でもないや、あーあ。」
「母《はば》さ云ってやるから!」――由三は大声で泣きながら、通りを走り出した。
 途中で片々の下駄を脱いで、手に持った。走りながら、「母さ云ってやるから!」何度もそれを繰りかえした。
 母親はすぐ裏の野菜畑の端で、末の子を抱えて小便《おしッこ》をさせていた。鶏が畠のウネ[#「ウネ」に傍点]を越えて、始終キョトキョトしながら餌をあさっている。
「ほら、とッと[#「とッと」に傍点]――なア。とッと、こ、こ、こ、こ、こッてな。――さ、しッこ[#「しッこ」に傍点]するんだど、可愛《めんこ》いから……」そして「シー、シー、シー。」と云った。
 子供は足をふんばって、「あー、あー、あば、ば、ば、ば……あー、あー」と燥ゃいだ。
「よしよし。さ、しッこ[#「しッこ」に傍点]、しッこ、な。」
 母親はバタバタする両足を抑えた。
 その時、身体をびッこに振りながら、片手に下駄を持って、畑道を走ってくる由三が見えた。それが家のかげに見えなくなった時、すぐ、土間で敷居につまずいて、思いッ切り投げ出されたらしく、棚から樽やバケツの落ちる凄い音がした。と、同時にワアッ[#「ワアッ」に傍点]と由三の泣き出すのが聞えた。
「犬餓鬼! 又喧嘩してきたな。……さ、しッこもうええか?」
 小指程のちんぽ[#「ちんぽ」に傍点]の先きが、露のようにしめっていた。
「よしよし、可愛《めんこ》い、可愛い。」
 由三は薄暗いベトベトする土間に仰向けになったまま、母親を見ると、急に大きな声を出し、身体をゴロゴロさせて泣き出した。

     S――村

 由三は空の茶碗を箸でたたき乍ら、「兄《あん》ちゃ帰らないな……」と、唇をふくれさせていた。
 兄の健は、畠からすぐ市街地の「青年訓練所」に廻ったらしく、夕飯時に家に帰らなかった。――健は今年徴兵検査だった。若し、万一兵隊にとられたら、今のままでも食えないのに大変なことだった。「青年訓練所」に通えば、とにかく兵隊の期間が減る、そう聞いていた。それだけを頼みに、クタクタになった身体を休ませもせずに通っていた。
 母親は背中へジカ[#「ジカ」に傍点]に裸の子供を負って、身体をユスリユスリ外へ出てみた。――子供は背中でくびれた手足を動かした。その柔かい膚の感触《さわり》がくすぐったく、可愛かった。
「ええ子だ、ええ子だ。」母親は身体を振った。――一度、こんな風に負ぶっていて、子供をすっぽり、そのまま畑へすべり落してしまったことがあった……。
 野面《のづら》は青黒く暮れか
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