不在地主
小林多喜二

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)倚《よ》りかかると

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)お父|今《えま》死んで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「┐<△」、屋号を示す記号、249−上−7]
−−

[#ここから9字下げ]
この一篇を、「新農民読本」として全国津々浦々の「小作人」と「貧農」に捧げる。「荒木又右衛門」や「鳴門秘帖」でも読むような積りで、仕事の合間合間に寝ころびながら読んでほしい。
[#ここで字下げ終わり]

    一


     「ドンドン、ドン」

 泥壁には地図のように割目が入っていて、倚《よ》りかかると、ボロボロこぼれ落ちた。――由三は半分泣きながら、ランプのホヤを磨きにかかった。ホヤの端を掌で抑えて、ハアーと息を吹き込んでやると、煙のように曇った。それから新聞紙を円めて、中を磨いた。何度もそれを繰返すと、石油臭い匂いが何時迄も手に残った。
 のめりかけている藁屋根の隙間からも、がたぴしゃ[#「がたぴしゃ」に傍点]に取付けてある窓からも、煙が燻り出ていた。出た煙はじゅく[#「じゅく」に傍点]じゅくした雨もよいに、真直ぐ空にものぼれず、ゆっくり横ひろがりになびいて、野面をすれずれに広がって行った。
 由三は毎日のホヤ磨きが嫌で、嫌でたまらなかった。「えッ、糞婆、こッたらもの破《わ》ってしまえ!」――思い出したように、しゃっくり上げる。背で、泥壁がボロボロこぼれ落ちた。何処かで牛のなく幅の広い声がした。と、すぐ近くで、今度はそれに答えるように別の牛が啼いた。――霧のように細かい、冷たい雨が降っていた。
「由ッ! そったらどこ[#「どこ」に傍点]で、何時《えつ》迄何してるだ!」――家の中で、母親が怒鳴っている。
「今《えま》、えぐよオ。」
 母親はベトベトした土間の竈《かまど》に蹲《しゃが》んで、顔をくッつけて、火を吹いていた。眼に煙が入る度に前掛でこすった。毎日の雨で、木がしめッぽくなっていた。――時々竈の火で、顔の半分だけがメラメラ[#「メラメラ」に傍点]と光って、消えた。
「早ぐ、ランプばつけれ。」
 家の中は、それが竈の中ででもあるように、モヤモヤけぶっていた。眼のあき所がない。由三は手さぐりで、戸棚の上からランプの台を下した。
「母《はば》、油無えど。」
「?」――母親はひょいと立ち上った。「無え?……んだら、※[#「┐<△」、屋号を示す記号、249−上−7]さ行って来い。」
「ぜんこ[#「ぜんこ」に傍点]?」
「ぜんこ[#「ぜんこ」に傍点]なんて無え。借れて来い!」
 由三はランプの台を持ったまま、母親の後でウロ[#「ウロ」に傍点]ウロしていた。
「行《え》げッたら行げ! この糞たれ。」
「ぜんこよオ!」――背を戸棚にこすりつけた。「もう貸さね――エわ。」
「貸したって、貸さねたって、ぜんこ[#「ぜんこ」に傍点]無えんだ。」
「駄目、だめーえ、駄目!……」
「行げったら行げッ!」
 由三は殴られると思って、後ずさりすると、何時もの癖になっている頭に手をやった。周章《あわ》てて裏口へ下駄を片方はき外したまま飛び出した。――「えッ、糞婆!」
 戸口に立ったまま、由三はしばらく内の気配をうかがっていたが、こっそり土間に這い込んで、片方の下駄を取出した。しめっぽい土の匂いが鼻へジカ[#「ジカ」に傍点]にプーンと来た。
 雨に濡れている両側の草が気持悪く脛に当る細道を抜けて、通りに出た。道の傍らには、節を荒けずりした新らしい木の香のする電柱が、間隔を置いて、何本も転がさっていた。――もうしばらくで、この村に電燈がつくことになっていた。毎日「停車場のある町」から電工夫が、道具をもって入り込んできた。一本一本電柱が村に近くなってきた。子供達はそれを何本、何本と毎日数え直して、もう何本で村に入るか、云い合った。皆は工夫達の仕事をしているところに、一日中立ってみていた。
「お前え達のうちに姉のいる奴いるか?」
 子供たちははにかみ笑いながら、お互に身体を押し合った。
「此奴《こいつ》にいるんだよ。」――一人が云う。「な!」
「ん、ん。」
「んか、可愛《めんこ》いか?――晩になったらな、遊ぶに行《え》ぐってな、姉さ云って置げよ。ええか。」
 と、皆は一度にヤアーと笑い出してしまう。――子供達は、何時迄もそうやっているのが好きだった。日が暮れそうになって、ようやく口笛を吹きながら、棒切れで道端の草を薙ぎ倒し、薙ぎ倒し、村道を村に帰ってきた……。
 通りを三町程行くと、道をはさんで荒物屋、郵便局、床屋、農具店、種物屋、文具店などが二、三十軒並
次へ
全38ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング