から一時間程して帰ってくると、家の中はガランとして、真中に荷造りした行李と大きな風呂敷包が転がっていた。父と母が火の気のない大きく仕切った炉辺にだまって坐っていた。薄暗い、赤ちゃけた電燈の光で、父の頬がガクガクと深くけずり込まれていた。
「早く暮れてければええ……」――独り言のように云った。父だった。
 暗くなってから、荷物を背負って外へ出た。峠を越える時、振りかえると、村の灯がすぐ足の下に見えた。健は半分睡り、父に引きずられながら、歩いた。暗い、深い谷底に風が渡るらしく、それが物凄く地獄のように鳴っていた。――健はそれを小さい時にきいた恐ろしいお伽噺《とぎばなし》のように、今でもハッキリ思い出せる。
「誰とも道で会わねばええな。」――父は同じことを十歩も歩かないうちに何度も繰りかえした。
 五十近い父親の懐には「移民案内」が入っていた。
 道庁で「その六割を開墾した時には、全土地を無償で交付する」と云っている土地は、停車場から二十里も三十里も離れていた。仮りに、其処からどんな穀物が出ようが、その間の運搬費を入れただけで、とても市場に出せる価格に引き合わなかった。――それに、この北海道の奥地は「冬」になったら、ロビンソンよりも頼りなくなる。食糧を得ることも出来ず、又一冬分を予め貯えておく余裕もなく、次の春には雪にうずめられたまま、一家餓死するものが居た。――石狩、上川、空知の地味の優良なところは、道庁が「開拓資金」の財源の名によって、殆んど只のような価格で華族や大金持に何百町歩ずつ払下げてしまっていた。「入地百姓――移民百姓」は、だから呉れるにも貰い手のない泥炭地の多い釧路、根室の方面だけに限られている。
「開墾補助費」が三百円位出るには出た。然し家族連れの移住費を差し引くと、一年の開墾にしか従事することが出来なくなる。結局「低利資金」を借りて、どうにか、こうにかやって行かなければならない。――五年も六年もかかって、ようやくそれが畑か田になった頃には、然しもう首ッたけの借金が百姓をギリギリにしばりつけていた。
 何千町歩もの払下げをうけた地主は、開墾した暁にはその土地の半分を無償でくれる約束で、小作人を入地させながら、いざとなると、その約束をごまかしたり、履行しなかった。
 健の父は二年で「入地」を逃げ出してしまった。「移民案内」の大それた夢が、ガタ、ガタと眼の前で壊れて行った。仕方のなくなった父親は「岸野農場」の小作に入ったのだった。
「日雇にならねえだけ、まだええべ。」

     村に地主はいない

 何処の村でも、例外なく、つぶれかかっている小作の掘立小屋のなかに「鶴」のようにすっきり、地主の白壁だけが際立っているものだ。そしてそこでは貧乏人と金持が、ハッキリ二つに分れている。然し、それはもう「昔」のことである。
 北海道の農村には、地主は居なかった。――不在だった。文化の余沢が全然なく、肥料や馬糞の臭気がし、腰が曲って薄汚い百姓ばかりいる、そんな処に、ワザワザ居る必要がなかった。そんな気のきかない、昔型の地主は一人もいなかった。――その代り、地主は「農場管理人[#「農場管理人」に傍点]」をその村に置いた。だから、彼は東京や、小樽、札幌にいて、ただ「上《あが》り」の計算だけしていれば、それでよかった。――S村もそんな村だった。
 岸野農場の入口に、たった一軒の板屋の、トタンを張った家が吉本管理人の家だった。吉本は首からかぶるジャケツに背広をひっかけ、何時でも乗馬ズボンをはいて歩いていた。
「この村では、俺《わし》を地主だと思ってもらわにゃならん。」
 初めて来たとき、小作を集めてそう云った。

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S村――田の所有分布。
 二百町歩――S村所有田
 百五十町歩――大学所有田・「学田《がくでん》」
 百二十町歩――吉岡(旭川)
 五百町歩――岸野(小樽)
 二百町歩――馬場(函館)
 二百十町歩――片山子爵(東京)
 三百町歩――高橋是善(東京)
外ニ、自作農五戸、百五十町歩。
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     「巡査」と「※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256−上−12]の旦那」

 市街地には、S村青年団、S村処女会があって、小学校隣接地に「修養倶楽部」を設け、そこで色々な会合や芝居をやる。――会長は校長。副会長には「在郷軍人分会長」をやっている※[#「┐<△」、屋号を示す記号、256−上−16]荒物屋の主人。巡査。それに岸野農場主が名誉相談役となっていた。――健達の通っている「青年訓練所」も、その「修養倶楽部」で毎晩七時からひらかれていた。
 巡査は一日置きに自転車で、「停車場のあるH町」に行ってきた。――おとなしい、小作の人達にも評判のいい若い巡査だった。途中、よく自転車を道端に置き捨て
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