健は始めて伴から頼まれて、小作人の家全部を廻って歩いた。――今度のことはモウ成行きがきまっている。そうなったら一人でもハグれないようにするためだった。――一廻り、廻って来ると、健は他愛なくなる程疲労した。
「ん、ん、ん!」
 ときいてくれる隣りでは、何しに来やがった、という顔をした。
「困るには困るども、穏当でねえべもしな。――後がオッかなくてよ。」
 そんなことも云う。
「岸野さんだら、一度ウンとやって置く必要あるんしな。」
 そして何処ででも、「へえ、健ちゃが、健ちゃがこんな事するようになったのか?」と、不思議がられた。
 その度に健は耳まで赤くして、ドギマギした。
 然し、たったそれだけの事をしただけで、健は何か大きな自信と云ってもいいものをつかんだように思われた。

     「納屋にあるのか?」

 健が裏で、晩に食う唐黍をとっていた時だった。
「健ッ! 健ッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」――母親の叫び声が家の中でした。
 その声にただ事でない鋭さを感じて、健はグイと襟首をつかまれたと思った。
 家の中にかけ込んだ。かけ込んで――見た。
 吉本管理人! 剣! 巡査だ! 役場の人! 鞄! 一瞬一瞬のひらめきのように、いきなり健の眼をくらました。
「気の毒だが、小樽からの命令で、小作米を押えるから。」
 吉本は戸口に立ったきりの健に、憎いほど落着いた低い声で、ゆっくり云った。
 ――健はだまって裏へまわった。皆はゾロゾロついてきた。母親はオロオロして、吉本や特に親しかった巡査の後から同じことを何度も云った。
「お母さん、どうも仕方がないんだ。」
 巡査はうるさそうに云った。
[#改段]

    十


     「小作調停裁判」

 又順序をふんだ!
 こうなると、健がジリジリした。――「小作調停裁判」を申請するというのだ。
「分りきった無駄足を何故使うんだ。」健はハッキリそう思った。――何んと云ったって、阿部も伴もやっぱり年寄りだ、とさえ思った。
 然し、ただ、今迄とはちがって、兎に角「表へ出る。」――所謂《いわゆる》社会的な地位のある人は、案外表へ出ることを嫌う。そこを衝いてみる必要がある――阿部も伴もその事を考えていた。
 差押えを受けてから、小作人もちがってきた。「モウ親も子もあるもんか。」――一番おとなしい小作さえ口に出して云った。
――小作は毎日毎日の飯米にさえ困った。納屋には米俵がつまさっている。何十俵も積まさっている。何十俵という米俵が積まさっていて、そして飯が食えなかった。
「少しでも手をつけると罪人だぞ。」
 巡査が時々廻ってきた。まるで岸野から言伝《ことづか》って来たようだった。――小作人は「罪人」と云われると、背中がゾッとした。
 H町からの帰り、母親と由三が薄暗くなったのを幸いに、所々の他人《ひと》の畑から芋や唐黍を盗んできた。――前掛けの端を離すと、芋、唐黍、大根が一度に板の間にゴトンゴトンと落ちた。
「兄ちゃさも、恵にも云うんでねえど!」
 家のなかに上ると、母親はさすがにグッたりした。――とうとう泥棒をしてしまった、と思った。
「……んでも泥棒させるのは、岸野さんだ。……ええワ、ええワ!――何アに……。」
 横坐りになると、そのまま何時迄もボンヤリした。
「母、俺ら学校の帰り何時でも取ってくるか?――由何んぼでも、見付からないように盗《と》れるワ。」
「馬鹿!」――母親はいきなり叱りつけた。
 食えなくなった小作達は、だまっていても、伴のところへ代る代る集ってきた。小作調停のことは、それで思ったより早く纏った。
 武田と佐々爺は「何んとか外にないか」「何んとかなア……」と云っていた。
 伴外一名が代表になって村長へ「口頭」で、小作調停裁判を申請した。村長は「遅滞なく」そのことを旭川地方裁判所へ提出した。それが「受理」されると同時に、小作米の差押えが解除された。――小作人はどうかした拍子に「かなしばり」がとけた時のような身軽さを感じた。――「やれ、やれ。」
 小作米は直ぐH町の「農業倉庫」に預け入りして、「倉荷証券」にした。それは何時でも現金にすることが出来るようになった。

     「小作官」

 道庁から「小作官」がやってきた。黒の折鞄を抱えた左肩を少し上げて、それだけを振って歩いた。伴の家へ上ると、茣蓙敷のホコリとズボンの膝を気にした。窮屈に坐った。話をききながら、「朝日」を吸った。――何本も何本も続けて吸う、しばらくもしないうちに、白墨の杭のように、炉の灰の中に殻が突きささった。
 阿部が伴に代って、初めから順序をつけて詳しく話した。
「ム――、それア、岸野さんにチィ――ト無理なところがあるね。」
「何がチィ――トだい!」
 帰ってから、伴が小作官の真似をして、皆を笑わ
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