「え、今のところは……矢張り秋になってみないと。」
 ――お互いに声が低くなっていた。
「気をつけて貰わないとな。」
「それア、もう!」
「ん。」
 岸野は正直に云って、時々後から不意に田の中へ突きのめされはしないか、という脅迫めいた恐怖を感じていた。何かの拍子に、何度も何度もギョッとした。一町も行かないうちに、汗をびっしょりかいていた。然し表面だけの威厳は持っていなければならなかった。
「この前のように、嘆願書をブッつける事はないだろうな。」
「その点こそ、今度は大丈夫ぬかりませんでした。」
「ん。」それで安心した。――然し後の方は口に出しては云わなかった。そして鷹揚にうなずいて見せた。持っていた穂を田の中に投げると、小さい波紋の輪が稲の茎に切られながら、重なり合って広がって行った。
「ね、お百姓さんって、何時でもこの水の中に入って働くのねえ!」
「そうで御座います、お嬢さん。」
 二つ三つ田を越したところで、丁度同じ年位の娘が頬かぶりの上に笠をかぶり、「もんぺい[#「もんぺい」に傍点]」をはいて、膝ッ切り埋って働いているのが見えた。顔に泥がハジけると、そのまま袖でぬぐっている。
「あれじゃ足も手も――身体も大変ね!」
「えええ、その何んでもないんで御座います。」――追従笑いをした。
「あたし学校の参考に稲を二、三本戴いて行きたいんですけれど……」
 女房達が争って稲を取りにかかった。――吉本管理人は、これアうまい、と思った。
「矢張り何んてたって、大したもんだ。」
 女房達は小腰をかがめながら、稲を差出した。令嬢は、「有難う。」と云いながら、フト差出された女達の手を見た。手? だが、それは手だろうか!――令嬢は「ま!」と云って、思わず手の甲で口を抑えた。
 一通り田畑を見てしまうと、「いとも」満足の態《てい》で、一行は管理人の家へ引き上げた。

     「伴さん」

 晩には小作人全部に「一杯」が出るので、皆はホクホクし乍ら二三人ずつ、二三人ずつ帰って行った。
「なア、えッ阿部君! 汗が出たアど。」
 伴がガラガラ声で、百姓らしくなくブッキラ棒に云った。
 阿部は何時ものように黙って笑った。健はこわばった顔で、少し後れてついて行った。それに伴や阿部付の人達が四五人一緒だった。――後から来る人達は、地主や奥様達のことを声高に噂し合っていた。
「あいつ[#「あ
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