に傍点]ことがないのに、押入れの奥まったところから、それも二枚取り出してきて、キチンと重ねてはいた。それから財布のなかを調べて懐《ふところ》に入れ、チリ紙とタオルを枕もとに置いた。そういう動作をしているお前の妹の顔は、お前が笑うような形容詞を使うことになるが、紙のように蒼白《そうはく》だった。しかし、それは本当にしっかりした、もの確かな動作だったよ。特高が入ってきて、妹を見ると、「よウ!」と云った。妹は唇のホンの隅だけを動かして、冷い表情をかえしたきりだった。妹と特高のその様子を見た母の顔は急に変った。そして、口のあたりをモグ/\と動かした。が、何故か周章《あわ》てゝ両手で、自分の口を抑えた。妹はその母をチラッと見ると、横を向いた。――その朝、この年とった母は何んにも云わなかった。たゞ、「寒くないか?」と云ったことゝ、愈々《いよいよ》連れて行かれるときに、妹の顔を見て、「あ――あ、お前もか!」と云ったきりだった。
母はこの前の、お前の時のように、今度は泣かなかったよ。だが、母はおそろしく無口になってしまった。誰か何かをしゃべっても、たゞ相手の顔を見るだけで、口をきかないの。そして、そうでなくても小さい母は、モット小さくなってしまった。
山崎の「ガラ/\のお母さん」のところへ行った[#「行った」は底本では「行たっ」]のも、やはり同じ時間だったそうである。このガラガラのお母さんは、前からその朝来ることが、分っていたかのように、「それ、秀夫や、来たど! 起きるんだ。」と云って、息子を揺り起し、秀夫さんが入口でスパイと何か云っている間に、ガリ[#「ガリ」に傍点]板を手早く便所の中に投げ捨てゝしまった。そして「サア/\、何処ッからでも見てけさい[#「けさい」に傍点]!」と云って、特高を案内したそうである。お前には、「サア/\何処《どこ》からでも見てけさい!」と云ったあのお母さんを直ぐ思い出すことが出来るね。スパイの連中が帰りがけにストーヴのお礼を云ったら、「そッたらお礼ききたくもない。それよりお前さんらサッサとこの商売をやめねば、後で碌《ろく》でもないことになるよ。」と云ったので、秀夫さんまでそれには笑ってしまったそうだ。――ところが、秀夫さんの方が何かと云うのに舌が口にねばり、乾いたせき[#「せき」に傍点]払いをして、何時《いつ》もとちがった声を出し、下り口に立っても、お母さんが靴を出してやらないと妙にウロ/\したり、帽子をかぶるのを忘れて、あわてたそうよ。
夜が明けてから、お前が可愛がって運動に入れてやった「中島鉄工所」の上田のところへ、母が出掛けて行ったの。若しも上田の進ちゃんまでやら[#「やら」に傍点]れたとすれば、事件としても只事でない事が分るし、又|若《も》しまだやっ[#「やっ」に傍点]て来ていないとすれば、始末しなければならない事もあるだろうし、直《す》ぐ知らせなければならない人にも、知らせることが出来ると思ったからである。争われないものだ、お前の母は今ではこういうことに気付くのだ。――母がたずねて行くと、薄暗い家の奥の方で、進ちゃんのお母さんが髪をボウ/\とさせ、眼をギラ/\と光らせて坐っていた。母が入ってきたのを見ると、いきなり其処《そこ》へ棒立になって、「この野郎[#「野郎」に傍点]ッ! 一歩でも入ってみやがれ、たゝッき殺すぞ!」と大声で叫んだそうだ。母は何が何んだか、わけが分らず、「あのね…………」と云い出すと、「畜生ッ! 入るか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」と云って、そこにあったストーヴを掻《か》き廻《まわ》す鉄のデレッキを振りあげた。母は真青になって帰ってきた。
この冬は本当に寒かったの。留置場でもストーヴの側の監房は少しはよかったが、そうでない処《ところ》は坐ってその上に毛布をかけていても、膝がシン/\と冷たくなる。朝眼をさますと、皆の寝ている起伏の上に雪が一杯ふりかゝっているので吃驚《びっくり》するが、それは雪が吹きこんできたのではなくて、(それもあったが)夜中に空気中に残っているありとあらゆる湿気がみんな霜に還元されるのである。なか[#「なか」に傍点]のものは次々と凍傷を起して行った。
お前の母ばかりでなしに、沢山《たくさん》の母たちが毎日のように警察に出掛けて行ったが、母はそこでよく子供を負《お》んぶした労働者風のおかみ[#「おかみ」に傍点]さんと会った。最初はどこの係りにやってくるのか分らなかったが、そのうち特高室で待っているところへ、そのおかみ[#「おかみ」に傍点]さんが入ってきた。それで同じ事件の人だということが分った。――帰りに一緒になって、母が色々なことを話そうと思い、お前や妹の母だという事を知らせた。すると、急に眼をみはって、マジ/\としながら、「んじゃ、お前さんが伊藤のお
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