、転々と住所をかえた。これ等のことが分らずにいて、長いうちにはウンとこたえていた。――それで、警察に六十日居り、それから刑務所と廻ってくるうちに、俺は自分の四肢がスンなりと肥えてゆくのを感じた。俺の場合[#「俺の場合」に傍点]、それは運動不足からくるむくみ[#「むくみ」に傍点]でも何んでもなく、はじめて身体が当り前にかえって行くこの上もない健康からだった。
 俺だちの仲間は、今でも刑務所へ行くことを「別荘行」と云っている。ドンな場合でも決して屈することのないプロレタリアの剛毅《ごうき》さからくる朗《ほがら》かさが、その言葉のうちに含まさっているわけだ。然し、そればかしでなしに、俺だちにとっては本来の意味――いわばブルジョワ的な「休息」という意味でも、此処は別荘であるということを、俺は発見した。俺だちは、だから此処で、出て行く迄に新しい精気と強い身体を作っておかなければならないのだ。
 だが、さすがにこの赤色別荘は、一銭の費用もかゝらないし、喜楽的などころか、毎日々々が鉄の如き規律のもとに過ぎてゆくのだ――然し、それは如何にも俺だちにふさわしいので、面白いと思っている。
「さ、これから赤色体操を始めるんだぞ。」
 独房の中で「ラジオ体操」をやる時には、俺は何時でもそう云っている。こゝが赤色別荘なら、こゝでやるラジオ体操も従って赤色体操なわけである。
 俺は元気よく、力一杯に手を振り、足をあげる。

     松葉の「K」「P」

 運動場は扇形に開いた九つのコンクリートの壁がつッ立ッていて、八つの空間を作っている。その中に一人ずつ入って、走り廻わる。――それを丁度扇の要《かなめ》に当る所に一段と高い台があって、其処に看守が陣取り、皆を一眼に見下している。
 俺だちの関係で入ったものは、運動の時まで独りにされる。ゴッホの有名な、皆が輪になって歩き廻わっている「囚人運動」は、泥棒か人殺連中の囚人運動で、俺だちの囚人運動は矢張りゴッホには描けなかったのだろう。
 俺はその中で尻をはしょって、両肌《もろはだ》ぬぎになり、おイちニ、おイちニ、と馳け足をはじめる。二十分だ。俺は運動に出ると、何時でも、その速力の出し工合と、身体の疲労の仕方によって、自分の健康に見当をつける素朴な方法を注意深く実行している。
 走りながら、こっちでワザと大きな声をあげると、隣りを走っている同志も大き
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